ガラスの目をした猫とトコトコ

とりとめのない話をします

傲慢

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他人に対して思いやりをもつ能力がなければ、そんな知能など空しいものです。



ふと冷静になる瞬間がある。
自分は安全圏からモノを言っているなという自覚に突然気づくことがある。





自分は幸福であると思う。

朝起きて何か食べて外に出て帰って来てまた何か食べて夜に寝て。

家庭も別段悪いわけでもなく平凡ながら幸福に暮らしていると思う。





そして突然冷静になる。

自分が日頃から口にしている幸福論や日常観はどうしようもなくある矛盾を抱えていることに気づくことになる。





この世には明らかに自分の、もっと言えばもう誰の手にも負えないような問題がウジャウジャとそこかしこに存在している。

そういった問題は自発的にしろ受動的にしろ目にしない日はないと言っていいと思う。
どこにでも転がっていて、ある日自分の元に転がり込んでもおかしくないものもある。

そうした状況を見るたびに自分の唱える幸福論など風が吹けば飛ぶようなものだと思い知らされる。





生死がかかった状況の下にいる人間にとって安全圏からの幸福論は非常に甘ったれたものに思えるし、事実としてそうなのだろう。





しかしこの冷静さには意味がない。

そうした問題に対して目を向けているポーズを取っている傲慢さ、自らの哲学をどうにもならないからと諦める怠惰さなど挙げればキリはないが、少なくとも言えるのはこうした冷静さは意味がないということだ。





何故なら幸福であることに後ろめたさを感じること、それこそが傲慢だと思うからである。

無自覚的にしろ自覚的にしろ自分が積み上げた哲学、もっと言えば自分の論を持つに至るまで積み上げてきたものの数々に対する侮辱をしているのと同じだからだ。





もちろんそういったものの数々も風が吹けば飛ぶようなものかもしれない、それはわかっている。

それでもそうした冷静さというものは本当に意味がない、全く意味がない。

幸福論を捨てることで諸々の問題にあたかも手を差しのべるかのようにしているだけの行為に何の意味もないことはわかっている。





それでもやはり意味がないという言葉で片付けてしまいたくないと思ってしまう。

これまでの自分を通ってきたモノがそんな排他的な考えのもとに産み出されたりしているとはどうしても思いたくないからだ。





アルジャーノンに花束を」というダニエル・キイスの小説がある。

内容は6歳ほどの知能しかないチャーリィという男性が手術を受け徐々に知能を高めていくというそんな話だ。

急激に知能を高めた彼は以前から抱いていた情緒、言い換えれば「やさしさ」を失い孤立していく。

冒頭の文章は著者がこの小説を執筆するにあたって基盤となる考えを記したものだ。





3年前の当時これを読み終えた自分はチャーリィの身の上を考えるとやるせなくなり著者のこの言葉をすっと受け入れていた。





しかし今は思いやりとは何なのかよく分からない。

もしもチャーリィが情緒もそのままに知能を上げていたとしたらこんな傲慢さと向き合わなくてはいけなかったのではないか。

手術前のチャーリィは本当にやさしさを持った人間だと言われていたが、そうしたやさしさは一体どこから来ていたのか、単に無我であっただけなのか、知能の上がった今の自分ができるやさしさとは単なる施しなのか。

考えることは様々だろうし「アルジャーノンに花束を」で言いたいのはそういうことではない。

そういうことではないが、考えてしまう。





やさしさとは恐らく僕が他人に施そうとしているだけの単なるエゴなのかもしれない。

例えば余計な口を挟まないようにするのはただ問題解決に怠惰であるだけで、逆に憂いてふと気分を盛り下げるだけというのも単なる傲慢なだけなのだろうとも思う。





乱暴な言い方をすればこの世にあるモノで自分が感銘を受けたものというのは当たり前だがそもそもその対象が限定されていると思う。

「見て欲しい」「聴いて欲しい」
そういう言葉も全て万人に向けているようで本当は残酷な言葉なのかもしれない。





けれどそうして産み出されたモノの数々はきっとそうした「想定」などはしていない。
勘繰りや無意味な悲観をすることなく、それでいて「みんな」とかそういう包括的な言葉の残酷さに関しては苦しみの毎日というかそれに自覚的にならざるを得ないことに葛藤してるものがほとんどだと思う。

これは事実かどうかは全く分からないが僕は信じたい。

僕が信じていたものはそうした葛藤の奥から産まれてきたものだと信じることで僕もそれをきっと受け止められていると信じたいから、そういうものだと思いたい。





BUMP OF CHICKENの「Smile」は2011年の震災の際にリリースされたチャリティーソングだった。

BUMPもメンバーの方々がチャリティーということに対する葛藤が発生しなかったはずがない。
喪失を歌ってきた彼らだからこそそうした喪失に対する無力さを絶対にわかっていたと思う。

それでも彼らはSmileをリリースした。
傍観者である彼らはそんな葛藤を乗り越えて世にモノを送り出した。





僕はSmileをあまり聴くことがない。というか気軽に聴くことができない。

イヤホンから流れるアルバムでも次の曲にスキップしたり、この楽曲のPVを見たのも1回だけだ。確かキレイな花畑の中でBUMP OF CHICKENの4人が演奏している映像だったと思う。





Smileもまた自覚させられる。こちらが決定的に傍観者であるということや、今まで抱いてきた自分の論が揺らぐのを本当に感じる。

そしてそれは恐らく彼らが通ってきた道だ。





アルジャーノンに花束を」も僕は1度読んだきり読み返すことなく本棚にずっとしまったままだ。

チャーリィを何度も喪失に追い込むことに耐えられないからだ。
いや、もっと言えば自分自身がチャーリィと別れることに耐え難い痛みを感じる。

読み返したとて、彼に何度も残酷さを突きつけるだけであると本棚に放ったままだ。





それでもやはりそれらの言葉は特に突拍子もないときに思い出すこともある。

それは冒頭の文章のような言葉でもあれば、

大事な人が 大事だった事
言いたかった事 言えなかった事

あまり聴くことのない「Smile」の言葉だったりするのだ。






結局こうして色々書き連ねてみても全く状況は変わらない。
生きている限りこうした自覚には何度も見舞われることになる。





傍観者であることには変わらない、明らかな大きな隔たりというものは事実としてある。





それでも僕はその傍観者であるという事実から全てを投げ出してしまうということはしたくないというワガママでずっと自分の哲学を持とうとしなければならないのだと思う。





僕がこれまで通ってきたモノの数々が直面してきた葛藤は少しずつ僕のカラダに浸透していっているといいなと思う。





僕が通ってきたものは吹けば飛ぶようなものではないというエゴを抱いて、僕はずっといちいち悩むしかないのだろう。

僕は僕のカラダを経由してきたモノたちのことをわかっているようでまだまだ全然わかっていないし、これから先もそうしたモノたちが段々とわかっていけるようになれればいいと思う。





書いている途中、SmileのPVはどんなものだったか思い返してみたらああ、花のキレイな映像だったなという感想が妙に心に残った。

記憶の中のおぼろげなその映像に興味を惹かれたので、数日のうちにそのPVをもう一度見返してみようと思う。