ガラスの目をした猫とトコトコ

とりとめのない話をします

話が

新曲出てからツイートとかで色々言ってましたけどこういうまとまった形で書き留めておきたいなと思ったので少し書こうかなと思います。



フルバージョンが初めて公開された(というより発売前の試聴として)のはSCHOOL OF LOCK!の放送で、その時はPVもBUMP OF CHICKENのイメージ写真もなく曲だけをストレートに聴くことになったのですが、自分は聴いたあと少し落ち込んだというか何だか堪えたものがありました。



初聴きしてすぐは興奮してるので色んな人の感想が聞きたくなってインターネットでそういう感想見てたわけですけど、自分は初聴きしたときこの曲は確かに地を這いつくばっているような状況かもしれない、けど節々に希望を見いだせるじゃないかと何となく思ってたのが、結構これが違ってたというか。



「話がしたいよ」には最後まで「君」は出てこない。
「君がここにいたら話がしたいよ」と繰り返すけれど最後まで「君」が現れることはなくて、それでいて疲れきったような言葉の数々が作用しすぎてたのかわからないけれど聴いた後は前を向けるっていうより内向してた人が多かったような気がする。



その後何回もラジオ放送のアーカイブをリピートして何回も聴いた後しばらくして、同じように自分も何となく落ち込んだというかある種の寂しさを覚えました。

話がしたい君にはもう二度と会えなくて、疲れきった体を運ぶだけの心になった人間の歌にはどうしても思えなかったけれどやっぱりそういうことなのかなと何となく思っていたし、自分はBUMP OF CHICKENが20年以上の活動で潜り続けてきた深さをわかった気でいたことも感じて恥ずかしくなったような気持ちでした。



BUMP OF CHICKENの歌には「死」を歌っているものは沢山あった(それが人であったり思い出であったり記憶であったりは形が様々だと思う)しそうしたやるせなさも歌の中にあるけれど、その上で今生きてるだろっていうのが彼らの歌だと思っていたからこそやるせなさみたいなものを感じすぎてしまって、彼らはとうとうここまで深く深く潜って表現することを選んだのかと。

タブー視とまで言わないけれど目を背けていたようなどうしようもなさだけで終わってしまったのかと何となく落ち込みました。




そんな風になりつつも音源が販売されたら買うか…と思ってた矢先にPVが公開されました。



そのPVを観た時にようやく僕は彼らの歌った再起を見た、というよりちゃんと気づけたかもしれないと思いました。



PVの最後にはBUMP OF CHICKEN4人がバス停に集まって写真を撮るというただそれだけのシーンなのですが、ラジオから流れた音源だけに囚われていた僕はその少しのシーンだけで救われた気がしました。



話がしたい君に会えないこともあるかもしれないし会えない期間はもうひょっとしたら永遠なのかもしれないけれど、彼ら4人が集まってくれた、1人でいた誰かが1人のままで終わらないでいてくれたことがどれほど嬉しかったか。

PVでちゃんと会えたからハッピーエンドというわけでもないのはこの歌自体が証明しているけれど、多分そういうことではないと思う。
話がしたい君に会えないから救われない、ではなくてそういうやるせなさも確かにあるけれど最後にBUMPの4人が集まってくれたことでそういうものを払拭というか、希望をくれたんだと思う。



「話がしたいよ」のPVは映像があることに凄く意味があったと僕は強く思います。
単に映像のきらびやかさとか演出の豪華さだけでなく僕はどうしようもなくその5分ない映像にあたたかさを感じてしまったので。



この曲は映画「億男」の主題歌だったのでそっちも観に行ったのですが映画のエンドロールで聴くこの曲もめちゃくちゃ良かったです。というかこの曲がオチを担ってると言っても過言ではないんじゃないかなと。

映画見た人にはわかると思うんですけど、ようやく結論にたどり着けた和男はいったい誰にそれを話したいのか、彼が真に元通りになることは叶わなくて想いを伝えることもおそらく容易に出来ることではないけれどだからこそただ「話がしたいよ」なんだなあと。

億男めっちゃ良かったので気になったらいつか観てみてください。






長々と書いてしまってあまりまとまってないかもしれませんがここまで読んでいただいた方々に感謝を込めて、ありがとうございます。

やっぱり自分はどうしようもなくBUMP OF CHICKENが好きなので、頻度は落ちてるけど今後もこういうまとめみたいな形でいろいろ残していけたらいいのかなと思います。

また書くことが見つかったら何かしら残しておきます、では。