ガラスの目をした猫とトコトコ

とりとめのない話をします

どうでもいいこと

ボーッとテレビを見ていたら映画のCMが流れてきた。



猫と飼い主のお話らしく、涙を誘うというような謳い文句と一緒に映画の映像を流していた。

その途中でどういったセリフだったか覚えていないけれど猫がご主人様がどうたらと喋るシーンがあった。



バラエティ番組でよく動物の映像が使われることがあるけれど、そこでもよく動物の心情を代弁したかのようなアフレコやナレーションをよく聞く。



あのCMもそういう類いのよくある1つだと思いつつも、何かふと違和感があった。



心とはいったい何なのか。

脳の電気信号。
精神。
心臓。
胸の真ん中あたりがジンジンするもの。
21グラム。
こころ、ココロ、心。


心の定義は多分この世に存在する人の数だけあって、曖昧なもの。

自分が「心」と呼んでいるものの定義すらわからないまま、動物の心をあたかも読み取ったような言葉というものは、いったいなんなのだろう。

動物だけじゃない、人は雪だるまみたいな自分が作ったものにすら話しかけたりする。



猫は言葉のやりとりが出来ない。
何を考えているのかわからない。

人が動物や物に感じる「心」という存在、時としてアニミズムとか呼ばれるものはただ人のエゴで作り出したものなのだと時々思う。



名前をつけたり、在るということにして安心を買っている。

この子はもし私が明日死んだら悲しむだろうとか、この子は私がいなければ生きていけないとか、そういうことを求めてしまうエゴがそうしたお喋りな動物を沢山生んでいる。



そうは言っても、そんな自分勝手な考えを別段否定しようとは思わない。

むしろ自分はそうした考えがあるから人はいちいち生きていけるのだと思う。



猫に自分との思い出があるかなんてわからない。
機械みたいに何かしらのプログラムで動いてるだけなのかもしれない。
そばにいる人がいなくなっても平然と生きていけるかもしれない。



それでも喋る猫が沢山いるのは、きっと自分が生きていることをこの上なく確かめるためなのかもしれない。

「我思う、故に我在り。」という言葉があるけれど、生きている感触、体温、記憶、そうしたもの全部を思い出しているうちは生きている実感がきっと無意識にしろあるのだと思う。



喋る猫というのは僕のエゴが作り出している虚像かも知れないけれど、僕はその虚像に何度も抱き締められているし、そうしたエゴを理解しながらも生きているカタチを抱き締めようとする人たちの姿はとても愛しいと思います。



そんなどうでもいいことをテレビを流し見していたらふと思いました。