ガラスの目をした猫とトコトコ

とりとめのない話をします

被る

なりたいものというか憧れてるものを参考にしてそれに近い存在と言わないまでも吸収して反映させた自分になろうとする欲求がここ最近強いけど、ほんとはそれって自分の自我とかオリジナリティーに対して答えを出すことを他の媒体に丸投げしてるようで良くないようにも思えて参りました。

自分という存在を表現する言葉は基本的に見つからないというか不明瞭で輪郭がぼやけているから、小説マンガアニメ音楽映画絵画彫刻その他もろもろで表現出来る人はするんだろうし、自分というものを示そうと思ったら何百何千何万何億の言葉を探すよりも行動で示した方が手っ取り早いのだと思う。



自分は割とオマージュ作品とか好きなのでグリーヴァの曲諸々とか某星団とかのBUMPオマージュ曲(厳密にはちょっと違う)も好んで聴いているし、そういう人達が自ら影響を受けた模倣じゃないけど反映させたもの自体だったりその姿勢 に憧れたりもするけれど、それとはまたちがって今の自分はその人物像に「なろう」としてるのがあんまり良くないのかな。カリスマに憧れてカリスマ的存在になりたいという欲求ももちろんあるけれどそうじゃなくて…

無論「なろう」とすることすらまだ遠い段階というか、生み出すには修練が足りなかったりして今はまだ吸収する期間なのかもしれない。というか生み出してからそういうことを言い始めるべきであって今言うことじゃないのかも。

ただ、自分のベースにこれがある!とわかっている物があるなら無理にそれになろうとしなくとも自然体で自分の経験とか哲学を込めて練ってみたら自ずから「なろう」とすることにはならないのかなあなんて。若い人間の考えることは全て先駆者の考えたことだなんてよく聞きますけど、今言った自分の哲学ももしかしたら模倣なのかもしれないという問いをきっと永遠に繰り返さなければならないのでしょう。



DIR EN GREYに「人間を被る」っていう曲があるんですけど、「人間」を「被る」ってどういうことなんでしょうね。性悪説じゃないけど痛みを歌ういつもと同じDIRの芯を考えるなら人間らしく振る舞っている醜いイキモノのことを指してるのか、それともアイデンティティを他人に任せて被っている人間のことを指してるのか(これに関しては過去の京さんに当てはまることだからありそうだけど…)、はたまた人間になりたいイキモノの話なのか…。連想される状況が様々である以上「人間を被る」は恐らくこれから先1ヶ月半年1年10年と聴くたびに色を変える気がしてなりません。「被る」ことは生きてる以上もう付きまとってくることが確定してるから。



まあ単純な話そんなこと気にしてる暇があったら手を動かした方がいいんですよね~。楽器触るたびに壁にぶつかるのでそんなことを考えてました。
カッコよく思われてえ~。

そういえば明日にはPATHFINDERのBlu-rayが届くので届いたぞ~って記事でも書きましょうかね、明日。