いちリトルデーモンの墓場

創作物の感想の雑記を載せます

ガラスのブルースとR.I.P.とラブライブ!サンシャイン!!


どうも、皆さま。

今回はTwitter等でいつもやっている好きなものをリンクさせるやつをブログで少しだけ長くやってみようという試験的なものです。歌詞を分解するやつはもうさんざん手をつけられてるでしょうし面白くないと思うのであんまりやりません。といっても自分語りもあまりないです。多分。よくわからない記事です。

前置きを長く上手いことを書ける気がしないので、さっそく本題に入ります。




ガラスのブルースとサンシャイン

まずはガラスのブルース。ガラスの目をした猫が歌い続けるお話です。短い命で「イマ」を叫ぶ猫のお話。
曲の後半で猫は星になります。でもその猫が歌ってきたことや猫の心は皆に刻まれてるぞ!だから俺たちも「イマ」を歌おう! そんな歌に僕は聴こえました。

最近サンシャインの7話を観て感じたのはこのガラスの目をした猫が星になったあとのお話です。学校を続けるためにもがくと決めたのにどうにもならない現実に押し潰されてしまう。「浦の星女学院」という場所は無くなってしまう事実。
迷うAqoursに道を示したのは生徒達でした。Aqoursがもがいてきたその姿がみんなの心に刻まれた、ガラスの目をした猫のように精一杯歌い続けてきたAqoursを見てきたのは画面の前の僕たちよりもさらに近い生徒達だったのがとてもあたたかいと思いました。生徒達もまた精一杯「イマ」を歌っているんですよね。


当時高校生ほどの年齢で藤原基央さんがこの曲を作ったときは自分と世界の関係に悩んだすえに世界に対して「自分はこういうものです」という証明が欲しかったと語っていました。

僕が同じくらいの年齢の頃は人よりちょっと勉強が出来ることをアイデンティティにしていました。とんでもない大学に行ったり大会が開かれるような学問の難問解いたりそういうことはできないけれど、まあ平均よりはちょっと出来てるし他は語れるものないけどいいでしょ、くらいのものです。そんな人間だったので世界に対して自分がこういう人間だ!と主張することなんて考えてもみなかった、そういうことに気づき始めたのは大学に落っこちたときにそのアイデンティティを崩壊させられてからです。だから時たま過去の自分て「イマ」に対して本当に何も考えてなかったなあと恥ずかしくなるときが本気で1日に1回はあったりします。

それでも、ガラスのブルースは「イマ」を叫べ!と言ってくれているので過去に負い目があっても今気づいたからいいだろ頑張れ!と言ってくれている(ような気がする)のでこの曲には本当にお世話になっています。BUMP OF CHICKENAqoursが僕にとってのガラスの目をした猫であるように、自分もいつか誰かにとってのガラスの目をした猫になれるのでしょうか。

そんなことを考えてアルバムの楽曲をランダムに聴いていたらまたん?と思うものがありました。





R.I.P.とサンシャイン

というわけで次はR.I.P.です。この曲も数年前までは何か辛気臭いというか聴けない!といって拒否してきたのに対して最近はようやく聴ける、というか自分からこの曲を求めるようになりました。R.I.P.というタイトルから想像できるようにここに「在ること」と「喪失」の両方が歌われているのですが、やっぱり上記のような考えでいる、在ることしか頭にないと聴ける曲聴けない曲っていう選別がされてしまっていたんだと思います。過去の自分は間抜けだなあと思いつつもこの曲と向き合うプロセスのためある意味必要だったと考えると複雑な気持ちです。何の話をしてるんでしょうね。

R.I.P.では色々なモチーフが出てきます。ザリガニだったり自転車だったり尻尾の生えた友達だったりアドバルーンだったり。
こういうモチーフから思い出すのは基本的に小学生くらいの頃です。何でも出来るような万能感に溢れていた頃の思い出。
しかしタイトルのR.I.P.からわかる通り尻尾の生えた友達は尻尾の付いた友達になってしまったりと、一種の充足感を感じている時期の主人公の前に「喪失」というものも出てきます。

「喪失」ということに対して今は幸運なことにあまり経験がありませんが、覚えていることが少しあります。
小学校3年生?くらいの頃に大阪にいる曾祖父が亡くなったので葬儀に出席したのですが、僕自信は場所の関係や年齢もあって曾祖父との思い出は覚えておらず(会ったことはあったそうです)、しかもいきなり学校を早退させられていきなり新幹線に乗せられて何も言われないまま突然連れてこられたので非常に不安でした。
曾祖父の葬儀が終わる前に僕はわっと泣き出していました。棺の中の曾祖父の姿に驚いたとか納骨のときに骨を見たのが怖かったとかそういう理由で泣いたのではなかったと思います。覚えていることもないのに、でも近しい誰かが亡くなったことが何故か不意に悲しくなって泣いていました。いなくなってしまった、という感覚を強く感じたのはその時です。

喪失という意味では僕は自分を喪失しながら生きていると最近になって感じています。小学校の頃の何でも出来ていたと思っていた自分、少し大きくなって身の丈をわきまえ始めた自分、全部諦めて勉強だけすこし出来りゃいいと考えた自分、そして今に至るまでだんだんと「輝き」というものに近しい感情から遠ざかってきたのかもしれないと考えるようになりました。
そういう意味で自業自得とはいえ僕が打ちのめされた後でBUMP OF CHICKENともう一度向き合ったりサンシャインに出会ったからそういうことにも気づけたのかもしれません。

R.I.P.の話に戻ると、曲の後半で「いなくなるのならいたことをしりたい」という箇所があります。

藤原 「なんで『R.I.P.』なのか」ということについては、言おうと思えば言えるんですけど。でも、言わないでおこうかな、と思っているんです(笑)。人それぞれが感じるR.I.P.を想像していただければ、と思っているので。それは例えば、物に対してのR.I.P.でもいいし、記憶に対してのR.I.P.でもいいし……何に対してでもいいんですよ。



R.I.P.を聴いて思ったのは昔の自分とはサヨナラをしていかなければいけないんだということです。
僕は自分のアルバムを見るのが得意じゃありません。幼少期の自分の写真、家族の写真、見ていると涙が出てくるからです。写真の中の自分を見たときに今の自分をぐるっと見回して「こんなところまで来てしまった」という気持ちがわいてくるような、そんな感覚です。幼い頃の自分がいなくなってしまうとか、家族が団らんしてた瞬間が切り取られて今はないことに自分が涙するなんておかしな話なんですけれども。そうやってアルバムをめくること自体が「いたことをしりたい」ということなのかもしれないと思うようになりました。そしてそれは自分の大切な人に対しても同じことです。

サンシャインのお話を少しします。サンシャインでも浦の星女学院という学校が無くなることが決まり、学校が無くなるなら意味があるのかなと悩むメンバー。
Aqoursが生まれてから何もないと思っていた街は実は輝いていたことがわかった、でもそんな街から無くなっていくものもある。悔しいけれど、じゃあいなくなってしまうから意味がないのか。
そんな中で生徒達がAqoursに「この学校の名前を歴史に残して欲しい!」と言葉をかけてくれたのがまさに「いなくなるのなら いたことをしりたい」ということ。それは画面のむこうの僕の言葉でもありました。いなくなってしまう自分に意味を見出だしたいのは僕も一緒です。それは勝手に思っていることですが。だからこそ自分には恩を返したい人達がいるのですが、その話を始めるともっと前から話さなきゃいけない、もっと長くなるのでこの記事ではやめておきます。





まとめ
ほとんどBUMP OF CHICKENと自分のよくわからん感性の話になりました(歌詞を分解するやつも結局やってしまいました)。まあ1つくらい内面の告白のような、そういう記事があってもいいかなあと思って触発された勢いで書きました。自分という個人にもっと触れるのはもうしばらく後になると思います、人に見せられるような誇れるようなことをしたりそういう人格だったりではあまりないので。
BUMP OF CHICKENの楽曲がほんとうに好きなので、たまにこういう記事でちょっとずつ日記みたいなことが出来ればいいなあなんて思っています。もしかしたら恥ずかしくて消すかもしれませんが。

というわけでここまで閲覧いただきありがとうございました。これからも末永くこのブログをよろしくお願いいたします。

BUMP OF CHICKENR.I.P.