いちリトルデーモンの墓場

創作物の感想の雑記を載せます

CHICKEN'Sトーク③ jupiter

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どうも、このシリーズも早いもので第3回目です。

今回からいよいよメジャーデビュー後のアルバムについてなんとなく思ったことや感想を書いていきます。このあたりはCDを買っていたとか何曲か聴いたことがあるといった方が多いと思います。
第3回目は「jupiter」。 藤原基央さんの好きな宇宙がこの頃からアルバムタイトルやジャケットに現れ始めました。前回の「THE LIVING DEAD」のような切羽詰まった状況での結晶とはまた違い、かなり前向きな(に捉えられる)曲がたくさんあります。僕自身購入したのは5年前ですが多くの場面で何度もお世話になっています。

さて、それでは楽曲の感想をひとつひとつ書いていこうと思います。





Stage of the ground
初っぱなからヤバイ曲。ライブの最初に演奏されたりすることの多い歌です。

まず歌の始めからヤバイです。「飛ぼうとしたって羽なんかない」と歌い出しから気づいています。タイトル通り地面からのスタートです。
ただ、地面からのスタートと言っても僕たちはやっぱり飛べないので地面はいつだって地面であり365日ステージなんですよね。厳しく言えば誰にでも土俵は開かれているだけとなってしまうかもしれないけれど、僕たちはいつでもステージに立っているんだと。主役は自分なんですよね。

「君の眼は必ず 再び光るだろう」もヤバイです。いったん眼が光らなくなった前提なんですよね。この歌は自分の眼に光が今は宿っていないことを知っていて、それを肯定するでも否定するでもなくただ今とこの先を歌ってくれている。苦しい状況に背中を押してくれるとっておきの唄と言っても過言じゃないです。

「優しくなりたいと願う~」の箇所もすごく好きです。誰かのためを願ったらそれだけで君はいいと言ってくれているような気がするので。人に優しく出来ている出来ていないでなく思うだけで心からの想いがあるんだと。そうだったら素敵じゃないですか?

このままだと歌詞のひとつひとつを拾って「好き」と言うやつを全部にやりそうなのでここまでにしておきます。

結論:全部ヤバイ





天体観測

説明不要の1曲。説明不要すぎるので長々と説明はしません。

「イマ」というほうき星を追いかける歌。あえて言うならばどこかで聞いたシチュエーションです。
あえて作品名は出しません(というより各々の作品がおそらくあるので)し、何かシンパシーを感じた作品のあるなしに関わらずこの曲の持つ魔法やパワーは変わらないはずなのでそのことについてだけちょっぴり言って終わります。

僕が見ている限りは誰しもが日常のどこかのポイントで「イマ」というほうき星を追いかけ始めたと思うのですが、その途中で見えてるものを見落としちゃうんですよね。前回の記事のグロリアスレボリューションもそうでしたが、何かを追いかける途中で大切なものだったり誰かを忘れてないか?っていうのを聞いてくれているんですよね。

歌の最後で、「僕」は「君」とほうき星を再び二人で追いかけるわけですが、「君」がいたこと、いることにまた気づいたんだと。そこが自分にとってはすごく大事なことに聴こえました。

ライブだとそんな最後の歌詞は『「イマ」という ほうき星 僕らみんな追いかけている』に変わってることもあります。もちろんこの曲もずっと大好きです。




Title of mine

音楽になった理由っていうのはあんまりよくわかんないけど、俺が“孤独”って言葉に対して思うのは、マイナス的な要素でもなくプラス的な要素でもなく、ひとつの事実であって現象であって、否定的になる必要もないかなと。ただ、受け入れる必要はあるかなと。


孤独を望んだフリをしている歌。
人に触れるのは別れたり傷つけられたりと痛みを伴うから触れたくない。でもやっぱり誰かの温もりを求めている。人に触れたい。

上記のインタビューで言われてる通り「孤独」っていうのはあくまで事実なんですよね。人と触れることから逃げるための言葉ではないし、人に触れられないでいる人を蔑む言葉でもない。Kでも孤独でいた方が楽という話をしましたが、「孤独である」という事象に甘えてはいけないんだなと。「人に触れていたい」と正直に叫ぶべきですよね。自分にはアイデンティティがない、自分には他人に話せることが何もない。そんなことを言って誰とも距離を置いたところで本当に誰もいなければこんな風に自分の好きなことをここにわざわざ書く必要もない。僕も誰かを求めてこれを書いているはずなので。本当に耳の痛いお話です。

誰もいないなら俺が唄う意味はない、と叫ぶこの歌はこの先まともに聴いていけるかかなり怪しいです。でも頑張っていきます。多分。

誰かのアドバイスに助けられてっていうのもあるだろうけど、誰かのアドバイスを自分の意志で汲み取ったわけですから、そのアドバイスを自分で実践してみようというふうに自分で決意したわけですから、それも自分の力だと思う。その程度のことにしか思ってない

この歌を自分の力でどうにか出来る日は来るでしょうか。





キャッチボール
タイトル通りキャッチボールの歌。

変化球や消える魔球も絶対に取りに行く。「取れなくてもいいよ」と言って欲しくないから。少なくともボールを投げることを自分で選んで投げた「君」の優しさや心を取りこぼしたくないんですよね。慣れてきて距離が遠くなるけれど心は近づいているってフレーズでこの曲すごいなといつも思います。

これは比喩ですが、ここ1年くらいで色々な方がキャッチボールをしている姿をよく見かけるようになりました。バッチリ捕球出来ているところもあれば取りこぼしているところも両方見たと思います。
僕は誰かが投げたボールをちゃんと追いに行ってるかな?とふと思いました。自分が好きなものについて言うとき、相手が好きなものについて言うとき、これはちゃんとキャッチボールになってるかな?、全力でボールを追いに行っているのが相手だけになっていないか?と。

この記事も僕にとってはそうです。この記事というか僕がCDを買って歌を聴いて何かを思ったことそのものがBUMPにボールを投げてるのと一緒だと思っていますが、BUMPの投げてくれているボールをきちんと取りに行けているかなあと。正解不正解というよりは自分の都合のいいようになっているかいないか。
BUMPとこれからもキャッチボールが続けられるようになっていければいいし、続けられるようにアンテナを張っていたいなと思いました。






ハルジオン
白い花のお話。くたびれた状況、くたびれた記憶のなかで白い花だけが鮮明に残っている。

僕のために咲いてる花っていうのがすごくいいです。俺のための○○という言葉をよく聞くようになってからしばらく経ちましたが、なにか差し迫った状況に身を置いたときにこれは俺のためにあったんだ!となるものがあることはすごく心強いです。自分の足取りを強く支えてくれますから。

しかしその花も途中で枯れてしまいます。けれどその中で花の芽を再び見つけることができた。
これ、僕にとってはBUMPを再び聴くようになった経緯そのものなんですよね。ちょっと前の記事に昔は聴ける曲聴けない曲の話をしましたが、BUMPから1度離れて戻ってくるまでに1度大きな失敗をして自分について考え直す機会が多くあって、それがあったから「R.I.P.」や他にも多くの曲とまた再び違う出会い方をすることができて。
BUMPの歌は自分の日常とリンクすることが多いですし、その瞬間は体の内側から何かが飛び出してくるような気分になります。その瞬間瞬間で枯れても枯れない花が咲いてるのかなあなんて思いました。

ところで、ハルジオンってどういう花なんでしょうか。調べてみましょう。

ハルジオン(春紫菀、学名:Erigeron philadelphicus)は、キク科ムカシヨモギ属の植物。北アメリカ原産で、日本では帰化植物となっている。ヒメジョオンと共に、道端でよく見かける。一部の地域では「貧乏草」と呼ばれ、「折ったり、摘んだりすると貧乏になってしまう」と言われている。花言葉は「追想の愛」。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%B3

ウィキペディアまんまコピペしましたが、道端でよく見かける花って考えるとさらにアツいです。道端に咲いてた1つの花が僕のために咲いてるっていうのがヤバイですね。語彙がないのでこの辺りの感情は上手く説明できません。あしからず。





ベンチとコーヒー
藤原さんが同じBUMP OF CHICKENのメンバーである直井(チャマ)さんに贈った曲。今でも手書きの歌詞カードを直井さんは自宅で額縁に入れて飾っているそうです。
とはいえメンバーに贈った歌といってもメンバーのためだけに歌ったものではなく、やっぱりBUMP OF CHICKENとしてこっちに向けて歌っています。そこは変わっていません。

この歌はほんとうにありふれた日常だなと思いました。道行く人々だったり太陽だったり自分に寄ってくる鳩だったり、そういうものに対してなんかいいなあとか自分は何だかダメだなあとか。
日常の中で目に入るありふれたものに対して抱くささいな気持ちだったり心の動き、ハッとする瞬間が歌に切り取られていてああ、あるよなあとなります。

そんな日常のささいな動きを聞いてくれる解ってくれる人がいるあたたかさが身に染みる歌です。






メロディーフラッグ
過ぎ去りし時のなかに立つ旗の歌。

昨日でも明日でもなく「今」を歌った歌というのがいいです。特に「明日」じゃないのが好きです。

「今」という言葉について触れる機会はここ1年強で本当にたくさんありました。月曜日じゃ遅すぎる。今、全力で輝こう。それこそ「イマ」というほうき星だってそうです。
これからさらに日々が過ぎ行くなかでBUMP OF CHICKENの歌を聴いて感じたものが未来で曇っても、また思い出していけるようなそんなものを感じます。
ちなみにこの曲自体は一時的な記憶喪失に陥った友人に贈った曲だそうです。けれどそれがある個人でなくCDを入れて聴いている色々な人の心に響いているのはやっぱりBUMPらしいですよね。

この曲が一番言葉にするの難しかったです。余談ですが、最近買ったYUKIのシングルCDのタイトルが「フラッグを立てろ」なので数年越しにフラッグが立てられました。こちらもすごく好きなのでBUMPの記事ではありますが興味があればぜひ聴いてみてください。






ベル
耳障りな電話のベルの歌。

自分のことなんかたいして知りもしないのに、明日にはこうして電話したことも忘れてるんだろうにと思いながらも、「元気?」と「君」が電話してきてくれたことに救われる「僕」の姿には共感するものがありました。

人に自分が思っていることはこうだ、考えていることはこうだと言いたくてもなかなか伝わらない。いつでも本音の少し手前で止まってしまうから理解されずに、相手に理解されようと思うことも止めてしまう経験ってたくさんあると思います。
そうやって口を閉ざしてきた人にとって「どうしたの?」と聞いてくれる人の存在は本当に救いになるんですよね。明日にはその人は自分に言葉をかけたことも忘れてしまうとしても、それは損得とは違う心から寄り添った言葉だと思うので。

こういう記事などで自分の言葉を何かにおこしていくうえで、これを読んでいるひとりひとりの事情は全部わかりようがなくとも自分の言葉が誰かにとってちょっと前向きになれる魔法がかかっていればなんて思います。





ダイヤモンド
メジャーデビューシングル。これも説明不要レベルの一曲。

「“ダイヤモンド”って『弱い部分、強い部分全部ひっくるめて自分なんだ。それを抱きしめてくれ』っていう歌ですけど、『弱くていいんだ。あ、よかった』って取ってくれる人もいるだろうし。でも人によっては『そうだ、弱い部分も俺なんだよな。これは困ったぞ』ってなる人もいるだろうし。俺はどっちも愛おしいです、聴いてくれた人は。前者の人はちょっと甘えるところを探してるのかもしんないです。でも後者の人は、その曲によってちゃんと覚悟をする人なのかもしんないです。どちらもどっちで僕は愛おしいです。だから何が言いたいかっつうと、優しいかもしんないし、厳しいかもしんないってことです。だってね、弱い自分を自分だと見直して過去に切り捨てたっていう歌ですよ。それを知ってしまう、ずっと呼んでたって気づいてしまう歌ですよ。それを認めろっつってる歌ですからね、ある意味ね。『おまえなんだからよ』って。だから聴く人によってはすごい厳しいんじゃないかな。『散々苦労して捨てたのにうるせえこと言うんじゃねえよ』って思う人もいると思います、いっぱい。だから人によってはものすごく厳しく響くだろうし、人によっては優しく響くこともあるだろうし。“優しい”って言葉をちょっと言い方を変えて言えば、人によっては都合よく響くかもしんないです。僕は、優しくしたいなとか思って歌ってるわけじゃないです。もうその中に厳しさだとか優しさだとか見つけた人の、その人の色なんだと、僕は思います」

ここが自分の人生観が変わった転機だと思っているので何度も同じ話になってしまいますが、大学にストレートで入れずもう1年やり直すことが決定したときはとにかく自分を恥じました。今までの自分の人生で何を積み上げてきた、何か人に誇れるもの、紹介できるものはあったのか。既に他の人とは離されているのに1年間さらに誰もかれも自分から距離を離していくのかと毎日考えていました。離されるのは仕方ない、積み上げてないのもしかたないと考えつつも、1日1日誰かと比べて劣等感を持ち続けるようなことばかりしていました。

この時期は「ダイヤモンド」はまともに聴けませんでした。弱い部分を他人に肯定されようと自分だけは認めちゃいけないと思っていたので。そうやって一人で戦うことが今の自分には必要なんだと。

今はもう少し違う聴こえ方になりました。今の自分に誇れるものがあるのかと聞かれたら口から出てくるようなことはないけれど、自分に誇れるものがないからこそ自分が目にしてきたものから受け取った気持ちを何かに返したい人に優しく出来るようになりたいとか、自分のことについて考えたり出来たので。

何回転んでもいいけど、すりむいた傷はちゃんと見なくちゃいけない。その言葉を忘れないようにすれば「ダイヤモンド」という歌は僕のなかで大事なもののままだと思いました。





ダンデライオン
これまたFlashや創作で有名なタンポポとライオンの歌。

この曲についての感想を見たりすると「嫌いもしなければライオンに語りかけることもないタンポポを好きになるライオンが可哀想」みたいなものをちらほら見かけるのですが、僕はそういう風にはあまり考えていません。
風に揺られるタンポポが頷いたように見えた、それだけで孤独だと思っていたライオンは誰かに寄り添って生きていけた訳ですから。本やテレビのヒーローは画面の中の怪人や怪獣を倒しても僕たちの問題を直接解決してくれないから応答してないのかって言われたら、ヒーロー達が与えてくれた勇気を自分に蓄積できたならそれは応答してると思うし、それは歌も同じですからね。
それに、タンポポもライオンと同じく生きていますから。何も物言わぬというわけじゃなかったと思います。そうは言いつつ最後はすこし悲しいですけれど。





おわり
というわけで3つ目にしていきなり難産になりました。逆に言えば、ひとつの歌に宿るものがどんどん増えているということなので、そういったものをじゃんじゃん形に出来たらいいなと思います。

jupiterは特に僕だけじゃなく多くの方の青春だと思うので、そういったことを思い出しながら視てくれた方がいたら嬉しいななんて思います。

それでは、ここまでの閲覧ありがとうございました。

CHICKEN'S トーク② THE LIVING DEAD

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どうも。ある意味自分なりの恩返し記事の第2回目でございます。

今回はインディーズレーベル時代の2つ目のアルバム「THE LIVING DEAD」です。
BUMP OF CHICKENにとっての暗黒期(このアルバムのレコーディングも1週間ほどしか時間がなかったそうな)を象徴する「生ける屍」をタイトルにしたこのアルバムから初めて物語形式の歌が生まれるようになりました。
じゃあファンタジー色が強いのかと言われればそうではなくて、そういったことについて今回は書けたらいいんじゃないかな、なんて思っています。




Opening
涙の落ちる音で駆けつけてきた誰か(ジャケットの男性らしい)が物語をプレゼントしてあげるよというそれだけの内容。
前述した通り物語形式の歌が初めて生まれたアルバムなので、アルバムの導入という意味はもちろんそのことへの決意表明みたいなこともあったのかなあと思いました。

歌詞は後に製作される(というか製作自体は出来ていたが発表しなかった)「プレゼント」の一部なので、プレゼントのときにこの歌についてはもっと書こうかなと思います。



グングニル


某フラッシュで有名な曲。僕も中学生のときにこのフラッシュを観て「なんだこのやべえ歌!?」となった記憶があります。ある意味僕にとってBUMP OF CHICKENに触れる原点のひとつです。

うさんくさい地図をなに本気にしてるんだと笑う人々、後ろ指を指す人々を振り切って自前の船、いわば武器で出港するもとんでもない荒波にもまれてしまう。その途中地図も自分で破り捨てた。けれど、何かを信じて突き進むその姿に人々は船に向かって手を振り始める。死に際、もう一度地図を拾い集めて荒波に立ち向かう。うーんかっこいい。
歌を聴いている間はこの「彼」がかっこよくて仕方がない、何かを信じて突き進む姿に人が鼓舞されていく様子が良すぎてあんまり考えないのですが、実際自分は何か目標のある人間を勝手に型に当てはめてないか?と問われている気もしています。お前が笑ってるやつだって宝物もってんだぞと。歌の最後で嵐に巻き込まれた「彼」は地図の場所にたどりつけたのか死んでしまったのかは正直答えを出せていないのですが(基本的に死んでいてほしくなタイプなので生きていてほしいです)、どちらにしても何かに立ち向かう理由になった宝の地図そのものが宝物だったことがすべてなんじゃないかなと。

「世界の神ですら君を笑おうとも俺は決して笑わない」というフレーズが好きで、いろんな場面で今もお世話になっています。




ベストピクチャー

絵描きさんのお話。安アパートの貧乏暮らしでこういう暮らしがいいなと絵を描いているけど、認められてる日がわからなくて苦しい。時が過ぎてお城みたいな家に住めるようになったけど、今度は描きたくもないような絵ばかりでなんで絵を描いてるかわからなくて苦しい。描きたい絵を描こうとしてもいい暮らしができてもどっちも苦しい。

これって多分今これを書いていることそのものなんですよね。以前大好きなあるアニメーション作品についての記事を書いていたのですが、いくつか書いている最中に「俺の言いたいことと違う!」「言葉を選んでも選んでも何か違うな」と違和感があって仕方がなかったので下書きに全て戻してしまいました。
好きなものを好きと言いたい、誰かに聞いてほしい、という気持ちで書こうと思ったはずなのにそれが出来ないこと、書いていかなくてはいけないようになってしまったことが苦しくなってしまいました。
これを書いている理由の根元はBUMP OF CHICKENに感謝の気持ちがあるから、その感謝の気持ちをたくさんの人と共有したいからなので、それを忘れてひたすら楽曲を聴いてここはこうあれはどうと言い初めてしまったらこの文章で伝えたいことも歌も遠ざかってしまうんじゃないかなあと。僕はそういうのをついついやりがちなので見てる方もなんじゃこりゃと思うことがあるかもしれませんけれども。

歌のお話に戻ります。何で絵を描いてるかわからなくなった絵描きは筆を折ろうとした。でもやめた。筆が、絵が好きなんでしょうって言ってくれた気がしたから。

生きてるぜ!絵を描いてるんだぜ!と絵描きが描くベストピクチャー。これを書いている理由というかこれを書いて何がしたいのかということをあらためて考えさせられましたし、この曲が無かったら前回の記事でまた途中で終わらせてしまっていたかも。ある意味この曲のおかげで完成できた記事かもしれないです。

そんなわけでこの曲好きになりました。ベストピクチャー。





続・くだらない唄
聴いていてむちゃくちゃに辛くなった歌。くだらない唄の続き?のような歌です。
R.I.P.のお話をしたときに聴ける曲聴けない曲があったという話をしましたがこれも聴けない曲でした。というか今になっても聴くときはかなり辛いです。

都会からタンポポの丘に帰ってきたけど昔の輝かしい思い出が今の自分に響いて仕方がない。この手は朝日の輝きに向かって振れない。
僕は自分の愚かだった行いを思い出して恥ずかしくなっては何なんだお前!?となる人間なので過去の自分が輝いてたとはあんまり思ってませんが、当時の自分だけに出せた雰囲気というか力はやっぱりあったのかなあとは思います。というか、そう感じてる人のほうが多いんじゃないかなあ。
歌の話に戻ります。手頃な台とヒモがあるから何となしに絞首台を作ってみたら原因不明の涙が止まらない。ここの涙は本当に原因不明というか、原因を探るのは野暮かなと。ただ行き着くところまできてしまったギリギリ感が伝わればそれでいいような。
帰ってきた頃は手を振れなかったと思っていた、輝いている朝日にまだ手を振っていいんだ振れるんだと納得できた「僕」。首は吊ってないけれどある意味一回死んでしまったことでちょっぴり自分のことを見直せたというか、ギリギリで生きてるけどそれでいいというか。ちょっとさっきから感じたことを書くのが難しいです。

ちゃんとこの曲聴いてなかったと思ってあらためて寝る前に聴いてみたら原因不明に尾を引きました。いや、本当に原因不明です。パワーがすごい。





ランプ
情熱のランプの歌。かなりネガティブな面からギリギリということに関して歌っていた前の曲とはうって変わってギリギリで生きてるなかで情熱のランプが語りかけてくる歌です。
FLAME VEIN製作後からTHE LIVING DEAD製作の間にこの曲のシングルCD「LAMP」が発売されたことからわかるように前のアルバムのキャッチコピー、「情熱は約束を守る」(好き)の色がめちゃくちゃ出てると思います。
自分の中の情熱のランプが語りかけてくる。大丈夫、大丈夫。いつも一緒にいるよ。こうやって語りかけてくるのはもう思い込みかもしれないですけど、なんとか生きてくぞって姿勢の自分に対して前向きな助けになってくれるそんな歌です。
今にも火をつけるぞ!火をつけるぞ!っていうところで曲が終わるんですけどそれがいいですよね。この歌を聴いて火がついたかどうかは僕たち次第だと思うので。この曲大好きです。





K
これも某フラッシュや、それを抜きにしてもかなり有名な1曲。ホーリーナイト。物語形式なのでここはこうって読み取るのもはばかられるので少し短くなっちゃいます。たぶん。
孤独が逃げ道っていうのは痛いところをつかれたなと思いました。一人なら悪意と向き合わなくていいから苦しくないし、他人の気持ちの機微に神経を使う必要もないから楽なんですよね。それでもやっぱり温もりを求めている黒猫がもう…このあたりは上手く言葉になりません。

最期まで駆け抜けるくらい芯のある猫だって知ってたからHoly Knightって名前をつけたんですかね。そうだとするとなおさら悲しくてでもあたたかくて説明のしようがなさすぎるので次の曲にいきます。申し訳ありません。





リリィ
ラブソングその2。といっても今回はラブソング以上に感じるものがある曲です。

これを読んでいるみなさんにお聞きしたいのですが、自己嫌悪に陥って自分なんかクソだって思ったときにそれを他人に言いますか?もしくは胸に秘めておきますか?他人に言うと答えた方は、自分を蔑むその言葉を否定してほしいですか?肯定してほしいですか?
僕はどっちかというと肯定してほしいと思っていた場面があったりします。面倒くさいやつなので、自分はそう思ってるのにいきなり「そんなことないよ」って言われたら自分の話なんて聞いてないんだって思ったり、慰めの言葉が聞きたいんじゃなくてとにかく自分を肯定してくれ!と願う(このへんは完全に人に甘えてますね、強くならねば)ことが多いので、気を遣って欲しいんじゃなくあなたの言葉が聞きたいんだと思うと肯定してほしいなんて思います。それはそれで「だよな」ってまたどんどん自責していくのでほんとうに面倒くさいやつなんですけれども。

歌の中に出てくる「君」は弱音を吐き続ける「僕」を見て、笑っている。自分が歌う言葉と自分とのギャップに苦しむ「僕」を見て、笑っている。笑っているといっても嘲っているんではなく、あなたはそういう人だからねと受け入れてくれる笑顔。「そういうところも全部かわいい人ね」と。
自分を否定する言葉に「確かにあなたはそうかもしれない」と否定はしないけれど、その上で自分のことを肯定してくれる。そんな人を望むこと自体甘えなんですけど、やっぱりその瞬間ってこのうえなく嬉しいと思うんですよね。本気で自分のことを見てくれてて本気で自分のことを考えて受け入れてくれているようで。これはただの持論でしかないですけれども。歌の中に出てくる「君」はそういう人だなんて思います。

歌の最後で「君」とはお別れするけれどそういう人がいたという事実は何にも換えがたいでしょうし、実際「最初で最後の恋人」ですし。ラブソングで相手と別れるとなったら悲しいものばかりだけれどリリィはすごく前向きというか、そういうところがいいなって思います。

余談ですがこの曲もイラスト付きで製作された動画で見かけてとても好きになり、何回も何回も聴きました。この時期の曲はフラッシュとか創作で知ったりしたことが多かったです。




Ever lasting lie
石油を掘り続ける人と待つ人のお話。愛する人のために莫大なお金を得るために「石油でも掘るしかないな」という言葉を真に受けてひたすら堀り続ける人は愛する人にも絶対に迎えに行くと言うわけですけどそんなのに決まってるんですよね。一方で女の人は娼婦のような仕事をしながら男の人を信じて待っている。

ここまでの話を聞いて何かピンときたあなた。そうです。ロミアです。ドラクエⅩⅠです。というわけでドラクエⅩⅠをプレイしてください。(了)
だとあまりに味気なさすぎるのでもう少し続けます。

歌の最後、女の人は亡くなるそのときまで男の人が来ることを信じ続けて幸せそうに眠ります。男の人はもう何故自分がシャベルで地面を掘っているのかわからない。でもただ堀り続けている。
男の人の嘘を信じて待ち続けたから女の人は幸せに目を閉じることができて、男の人も石油は掘り出せなかったけれど女の人に希望を与えていたわけで、突き通した嘘は人を救うこともあるんだなあと考えるとやるせないようなすばらしいと感じるような複雑な気分です。上記のゲームでは僕は真実を話すを選んで進行したので改めてこの歌のシチュエーションが心に刺さります。これが過ぎ去りし時を求めてか…

余談ですがこの曲8分を超え、間奏がむちゃくちゃ長いです。その長い間奏が過ぎ去った長い年月を表しているようで物凄くいいです。(特に後のカップリングでのAcoustic Versionは間奏が本当にいい。)そこも注目してぜひ聴いてみてください。




グロリアスレボリューション

タイトルを訳すと名誉革命。お前が呼吸してる(生きてる)ことを世の中に向かって叫んでいけ!という歌です。グングニルのような突き進む曲なのですが、この曲は言葉選びが本当に気持ちいいです。オッケー、オッケー。いける、いける。みたいなノリが心地よい。(歌詞をまんま貼りたいところですがあまりよくないので各々確認していただけると…)

ただそこで終わらないのがやっぱりBUMPで、手錠を外せ!飛んでいけ!と言っているヤツの手にもまた手錠が付いてる。おいおい取れねえな!と最後に言われます。変わろう変わろうというのもある意味手錠みたいなもので、多くのものに感銘を受けて自分も変わってみようということに気負いしすぎてる人に向けてはすごく優しく響くんじゃないかと思いました。昔は小気味いいながらもこちらを最後に殴ってくる結構な曲(もちろん好きでした。)だなあというのが感想でしたが、最近になって聴いてみるとそんな風に感じることもあってやっぱり聴くシチュエーションによってBUMPの歌は多くのものが変わるんだなあと実感しました。




Ending
タイトル通り。物語を受け取った僕たちに「君には味方がいるよ」と歌って終幕。BUMPがくれた歌は確かに僕の味方になっていると思います。
「プレゼント」の項で後々語るので長い説明はやめておきます。



おわり
というわけで第2回終了でございます。ここまで読んでいただいた皆様ありがとうございました。

THE LIVING DEAD」のアルバムを買ったのは5年も前ですが、最近は聴く機会をあまり設けていませんでした。この記事を書くにあたって聴き直してみたら当然5年の間で曲に対して今はまた違う考え方になっているなと気づきました。BUMP OF CHICKENの曲の魔法ってこういうことなんだなと。こういうところがすごく好きです。


では長々と語るのも野暮なのでこれにて。あらためてここまでの閲覧ありがとうございました。

CHICKEN'S トーク① FLAME VEIN


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ということでBUMP OF CHICKENのアルバムにひとつひとつ感想を述べていくという記事をシリーズのような感じで小出しにしていきます。
まずはインディーズレーベル時代最初のアルバム「FLAME VEIN」について。収録されている一曲一曲について何か自分の想いなどをぶつけていけたらと思います。

アルバムタイトルの由来はレコーディング中に血管が浮き出ていたことにインスピレーションを受けたこと。発売当時のキャッチコピーは「情熱は約束を守る」でした。(この言葉がすごく好き)
この時期のBUMP OF CHICKENと年齢が変わらない(ガラスのブルースのように曲自体ができたのは自分の年齢よりも若かったりするものもある)ところまで年を重ねてきたので、そういった感覚も大事にしていけたらといいなと。
曲によって書けることの長い短いがありますがあしからず。


ではさっそく始めていきます。



ガラスのブルース

つい先日の記事にてガラスのブルースについては思い入れを書いたので。

ちょっとだけ補足すると、前半でガラスの目をした猫が歌っているときのサビの「僕」と後半でガラスの目をした猫が星になった後のサビの「僕」っていうのは意味が違うと思うんですよね。前半は猫で、後半は猫じゃなくそれこそ歌を歌っているBUMP自身のことかもしれないし、これを聴いているこちら側のことかもしれない。今度はこっちが歌っていかなきゃならないんだと感じる後半の熱意はやっぱり好きだなあなんて思います。


くだらない唄
タンポポの咲く丘のお話。明日大人になる前にここで会おうと約束したけれど、あなたは来ない…なんてお話です。

「大人になんかなりたくない」というよりは「大人になる」という事実が淡々と降りかかってくることを歌っている。事実だからなりたくないなんて言ってられないし、それは本当に「ある」とか「ない」とかの事実でしかないんですよね。それに対して思い出を作ろうネクタイで迷わないようにしようと言うけれどやっぱり「背広もネクタイも見たくない」し「あなた」が来ないのも知っているし震えてしまう。そんな歌かなあと思いました。

「あなた」は来てくれないなんて薄情なやつだと思うかもしれませんが、来なかった「あなた」は怖かった大人の世界に入っていけたんだと考えたらある意味一人立ちしているとも考えられるんですよね。じゃあタンポポの丘にきて「あなた」を待ってぶるぶる震えてる「僕」が情けないやつなのかと言われたらそれもそうじゃなくて。「怖い」って正直に言うことがくだらないのかって言われたらそうじゃないと思うし、そういう声を聞いてあげる必要だってあるのかなあと。正直僕も怖いです。それは単に経験がないから甘えた考えなのかもしれませんが。
ただ不幸なことに「僕」の元に「あなた」が来ることはなかったので一人で立ち向かうしかない、これを事実として歌われているのが厳しいようで逆にいえばこういう状況に陥ってる人達へは「ああ、こういうことって自分だけが思ってるんじゃないんだ」くらいの助けにはなるんじゃないかなあと思います。

ちなみに曲のタイトルの由来は帰りの電車の40分くらいで詞を書いたからだそう。
怖いとか、この日を迎えたくないって気持ちは確かに甘えかもしれないけれどそれでもそういう気持ちがあるって言うのはくだらないことかなあと思うようなところに曲のタイトルがこう来るもんだからなかなかふむむむむむっとさせられます。多分それもわざとでしょうけど。

ちなみに昔ライブでこの曲を演奏するときにタンポポの花を取り出す客がおり、メンバーはその度に激怒していたらしい。そりゃ怒るわ。




アルエ
新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイに宛てられた曲。
そのエピソードとハートに巻いた包帯=心+布=怖 のくだりが結構有名だと思います。

曲が出来た経緯に呆気に取られがちですけれど、綾波レイって碇シンジ君とは間違いなく友達という関係に終われない(恋愛的な意味ではなく人と人として交わることが出来ない)し、そもそも綾波レイって個人がどこまで「綾波レイ」なのかも謎な部分があるんですよね。
そんな特異なキャラクターに対して作中で「綾波レイとして君に救われてほしい!」って歌うことは愛がなければ出来ないことなんじゃないかなあと。作中で「綾波レイ」として救済されてるのかって言われたら微妙なところがあるし、それに何か思ったからこの曲が出来たんじゃないかなあなんて思っています。

ある意味なにか作品を観て還元した「究極の恩返し」って言えばそうなるのかもしれないし、そういう人達を多く見てきた身としてはすごく見習いたいです。




リトルブレイバー
僕はまず「リトルブレイバー」という言葉が好きです。ブレイバーではなく、リトルブレイバー。

もしこの歌の中で出てくる人がブレイバーなら(一応出てくることは出てくるのですがまた少し違う)この曲は自分とは遠い存在になっていたと思います。守るべきものがある、守るべき人がくれる、ただそれだけでちょっと何かが変わる。行動に起こせたらとかではなく何か大事なものがあるならそれだけで「リトルブレイバー」。リトルブレイバーだから、この曲が響くんじゃないかなあと。

とは言ってもじゃあ一人一人がリトルブレイバーなんだと自覚してちょっと励まされた気になって終わりかと言えばそうではなくて、じゃあその大事なもののためにやれないことがあるのか?やれないのなら、そんな弱さなんて悲しいだろと問いかけてこられるのでやっぱりうぐっとなってしまう。

ただ、この曲を聴いてああ、道行く誰かも自分も皆リトルブレイバーなんだと鼓舞されることはやっぱりあるので、どっちも大事な気持ちなんだと思います。厳しくも聴こえるし優しくも聴こえる、聴いたその瞬間によって激励にも叱咤にもなり得るような歌だなあと。難しいです。




ノーヒットノーラン
スラッガーのお話。この曲の「ノーヒットノーラン」はピッチャーの業績の意味では使われていません。今日は未だ「ノーヒットノーラン」のスラッガーのお話です。

基本的に自分は前に立つ人間でないので積極的に自分の意見を言える人たちのことをとても尊敬していますし、それこそそういう方達はまさにスラッガーのように期待されたり、一目置かれたりしていると思います。

でも、そんなスラッガーも怯えたり逃げ場を求めたりしているんですよね。自分の考えを外に出していくのはいつも目にしているけれど本当は外に向けてすごく勇気のいることをしていて、僕自身こんなこと言って嫌われないかとか、誰かを不快にさせないかと考えてなかなか文章を外に出せないときもあります。実際に人に嫌な思いをさせたときにどうしていいかわからなくてただどうしようと頭を抱えるしかなかったこともありました。そういう瞬間のことは忘れられないから何度も反復されるし、その度に恥ずかしくなったり情けなく思ったりします。

だから僕が見ている人たちも僕のあずかり知らぬところできっと色々なものを抱えながらそれでも言葉にしていると思います。
きっと誰でもスラッガーになる、ならなきゃいけない時が来るんですよね。自分の言葉だったり自分の姿が誰かを鼓舞できる、その責任を持たなきゃいけない日がいつやって来るのかはまだわかりません。ただ、自分しか誰かのためになれないチャンスが訪れたときにものにするための向き合い方としてこの歌には「まかせろ!」と言われています。この歌そのものが僕にとってのスラッガーです。

そんな僕は未だノーヒットノーランです。お気に入りです、この歌。




とっておきの唄
数少ないラブソングの1つ。ラブソングなので語るのが難しいため手短です。

ただ、ラブソングといっても「君が好きだ」とか相手にそういう気持ちを伝えようということを中心に考えるよりかは君がいるから日常がキラキラしているんだよという、日常に寄り添って歌うBUMPの根本的なところはラブソングでも変わらないんだなと感じます。二人でいればどこでもいいし、ささいなことでもアルバムの中の思い出にしていくんですよね。
そもそもラブソングっていうのも誰に宛ててるかって言われたら個人というよりは(おこがましいようですけど)これを聴いているリスナーへのラブソングかもしれないし、ラブソングを公言してるだけで「君らしい君」という言葉が大事なのかもしれないし。ラブソングだからって身構える必要はないのかなあと最近になって思いました。

最近は人と出会って比較的自分を出しながら色んなところに行くことが多いので、いろんな場所に一緒に行った多くの方への親愛のラブソングとしても聴けるなあなんて最近は思っています。

少しキモい感じで終わりましたが次行きます。




ナイフ
隠しを除いてこのアルバムで唯一英語詞がある曲。インディーズ時代初期は英語の詞で曲を書くことが多かった(当人いわくメッセージ性の薄いめちゃくちゃな英語の歌)のですが、その余韻というか影響が見られることもあってなんとなく「雰囲気が違う」のは感じます。歌詞からしても雰囲気が違うような気がしているので。

「ナイフ」っていう物(と言葉)自体に結構攻撃性があるというか、ナイフは危険なものという認識が強いのですが、歌の中では望めば望むほど隠したナイフは鋭くなるというように、このしみったれた現状にナイフで立ち向かえ!という意味がなおさら強くなっているのかなあなんて。
まあでもそのしみったれた現状を作っているのはやっぱり自分で、お前なにか忘れてないか?というのを問いかけてくるようななんだか不思議な曲です。

でも最終的に歌われるのはPROVE YOURSELF!なんですよね。




DANNY
隠しトラックに収録。ガラスのブルースよりも前に製作された歌。隠しトラックは解説するつもりはありませんでしたがこの曲だけはちょっとだけ触れたいと思います。

前述した通り英語で詞を書いていた時期があり、その時の歌(なんと高校一年生のときに出来た曲)ですが本人達いわく「初めてメッセージ性を込めた」歌だそう。

歌の内容はダニーという名前の飼い犬が朝起きたら隣の庭の犬とケンカしていて、それを見てダニー頑張れ!ダニー頑張れ!というもの。瀕死になったダニーに「DANNY, I love you!」と言いながら頑張れ頑張れというこの曲、結構涙腺というかいろいろ刺激されます。

歌のしょっぱなから「When the morning」というめちゃくちゃな英語ですが、文法とかどうでもいいんですよね。ダニー頑張れ!ダニー頑張れ!っていう気持ちが大事で、BUMP OF CHICKENが最初に込めたメッセージが「頑張れ」なのもすごくあたたかくて何度も聴いています。

「頑張れ」って言葉って時には無責任というか、だからこそ前述のリトルブレイバーなどはその無責任な言葉だけが残らないようにただ事実だけを歌っているんだと思います。事実だからこっちには優しくも厳しくも聞こえるような歌をたくさん作っているんだと思いますが、それでも「DANNY」はその熱量が全てというか、「頑張れ」と言われることがすごく心地のいい歌です。

今でもDANNYはライブのアンコールなどで歌われていてある意味ガラスのブルースとこの歌が原点として言われることが多いですし、僕もそう思います。

早くDANNYをカラオケに収録してください。(歌詞が公式発表と音源で違うのと隠しだからっていうので多分無理だろうが。)




おわり
そんなこんなで「FLAME VEIN」感想、以上になります。
自分で文章にするにあたってこの言い回しと俺が言いたいこと違うなとか、こうやって形にしてみると俺ってこうやって聴いてるんだなとか、他にもこうだよなとか多く気づけることがあって改めてBUMP OF CHICKENが好きなのだと実感しています。

もしかしたらこのシリーズ途中で無くなる可能性がありますが(濃厚)、出来る限り、それでいてゆるりと続けていくので皆様もゆるりと楽しんでくれればと思います。


最後までこの記事を見てくださってありがとうございました。この記事を読んでこれ聴いてみたけどこんなこと感じたよっていうのがあったら言っていただけるととても嬉しいです。

では、この記事はこれにて。さようなら。

ガラスのブルースとR.I.P.とラブライブ!サンシャイン!!


どうも、皆さま。

今回はTwitter等でいつもやっている好きなものをリンクさせるやつをブログで少しだけ長くやってみようという試験的なものです。歌詞を分解するやつはもうさんざん手をつけられてるでしょうし面白くないと思うのであんまりやりません。といっても自分語りもあまりないです。多分。よくわからない記事です。

前置きを長く上手いことを書ける気がしないので、さっそく本題に入ります。




ガラスのブルースとサンシャイン

まずはガラスのブルース。ガラスの目をした猫が歌い続けるお話です。短い命で「イマ」を叫ぶ猫のお話。
曲の後半で猫は星になります。でもその猫が歌ってきたことや猫の心は皆に刻まれてるぞ!だから俺たちも「イマ」を歌おう! そんな歌に僕は聴こえました。

最近サンシャインの7話を観て感じたのはこのガラスの目をした猫が星になったあとのお話です。学校を続けるためにもがくと決めたのにどうにもならない現実に押し潰されてしまう。「浦の星女学院」という場所は無くなってしまう事実。
迷うAqoursに道を示したのは生徒達でした。Aqoursがもがいてきたその姿がみんなの心に刻まれた、ガラスの目をした猫のように精一杯歌い続けてきたAqoursを見てきたのは画面の前の僕たちよりもさらに近い生徒達だったのがとてもあたたかいと思いました。生徒達もまた精一杯「イマ」を歌っているんですよね。


当時高校生ほどの年齢で藤原基央さんがこの曲を作ったときは自分と世界の関係に悩んだすえに世界に対して「自分はこういうものです」という証明が欲しかったと語っていました。

僕が同じくらいの年齢の頃は人よりちょっと勉強が出来ることをアイデンティティにしていました。とんでもない大学に行ったり大会が開かれるような学問の難問解いたりそういうことはできないけれど、まあ平均よりはちょっと出来てるし他は語れるものないけどいいでしょ、くらいのものです。そんな人間だったので世界に対して自分がこういう人間だ!と主張することなんて考えてもみなかった、そういうことに気づき始めたのは大学に落っこちたときにそのアイデンティティを崩壊させられてからです。だから時たま過去の自分て「イマ」に対して本当に何も考えてなかったなあと恥ずかしくなるときが本気で1日に1回はあったりします。

それでも、ガラスのブルースは「イマ」を叫べ!と言ってくれているので過去に負い目があっても今気づいたからいいだろ頑張れ!と言ってくれている(ような気がする)のでこの曲には本当にお世話になっています。BUMP OF CHICKENAqoursが僕にとってのガラスの目をした猫であるように、自分もいつか誰かにとってのガラスの目をした猫になれるのでしょうか。

そんなことを考えてアルバムの楽曲をランダムに聴いていたらまたん?と思うものがありました。





R.I.P.とサンシャイン

というわけで次はR.I.P.です。この曲も数年前までは何か辛気臭いというか聴けない!といって拒否してきたのに対して最近はようやく聴ける、というか自分からこの曲を求めるようになりました。R.I.P.というタイトルから想像できるようにここに「在ること」と「喪失」の両方が歌われているのですが、やっぱり上記のような考えでいる、在ることしか頭にないと聴ける曲聴けない曲っていう選別がされてしまっていたんだと思います。過去の自分は間抜けだなあと思いつつもこの曲と向き合うプロセスのためある意味必要だったと考えると複雑な気持ちです。何の話をしてるんでしょうね。

R.I.P.では色々なモチーフが出てきます。ザリガニだったり自転車だったり尻尾の生えた友達だったりアドバルーンだったり。
こういうモチーフから思い出すのは基本的に小学生くらいの頃です。何でも出来るような万能感に溢れていた頃の思い出。
しかしタイトルのR.I.P.からわかる通り尻尾の生えた友達は尻尾の付いた友達になってしまったりと、一種の充足感を感じている時期の主人公の前に「喪失」というものも出てきます。

「喪失」ということに対して今は幸運なことにあまり経験がありませんが、覚えていることが少しあります。
小学校3年生?くらいの頃に大阪にいる曾祖父が亡くなったので葬儀に出席したのですが、僕自信は場所の関係や年齢もあって曾祖父との思い出は覚えておらず(会ったことはあったそうです)、しかもいきなり学校を早退させられていきなり新幹線に乗せられて何も言われないまま突然連れてこられたので非常に不安でした。
曾祖父の葬儀が終わる前に僕はわっと泣き出していました。棺の中の曾祖父の姿に驚いたとか納骨のときに骨を見たのが怖かったとかそういう理由で泣いたのではなかったと思います。覚えていることもないのに、でも近しい誰かが亡くなったことが何故か不意に悲しくなって泣いていました。いなくなってしまった、という感覚を強く感じたのはその時です。

喪失という意味では僕は自分を喪失しながら生きていると最近になって感じています。小学校の頃の何でも出来ていたと思っていた自分、少し大きくなって身の丈をわきまえ始めた自分、全部諦めて勉強だけすこし出来りゃいいと考えた自分、そして今に至るまでだんだんと「輝き」というものに近しい感情から遠ざかってきたのかもしれないと考えるようになりました。
そういう意味で自業自得とはいえ僕が打ちのめされた後でBUMP OF CHICKENともう一度向き合ったりサンシャインに出会ったからそういうことにも気づけたのかもしれません。

R.I.P.の話に戻ると、曲の後半で「いなくなるのならいたことをしりたい」という箇所があります。

藤原 「なんで『R.I.P.』なのか」ということについては、言おうと思えば言えるんですけど。でも、言わないでおこうかな、と思っているんです(笑)。人それぞれが感じるR.I.P.を想像していただければ、と思っているので。それは例えば、物に対してのR.I.P.でもいいし、記憶に対してのR.I.P.でもいいし……何に対してでもいいんですよ。



R.I.P.を聴いて思ったのは昔の自分とはサヨナラをしていかなければいけないんだということです。
僕は自分のアルバムを見るのが得意じゃありません。幼少期の自分の写真、家族の写真、見ていると涙が出てくるからです。写真の中の自分を見たときに今の自分をぐるっと見回して「こんなところまで来てしまった」という気持ちがわいてくるような、そんな感覚です。幼い頃の自分がいなくなってしまうとか、家族が団らんしてた瞬間が切り取られて今はないことに自分が涙するなんておかしな話なんですけれども。そうやってアルバムをめくること自体が「いたことをしりたい」ということなのかもしれないと思うようになりました。そしてそれは自分の大切な人に対しても同じことです。

サンシャインのお話を少しします。サンシャインでも浦の星女学院という学校が無くなることが決まり、学校が無くなるなら意味があるのかなと悩むメンバー。
Aqoursが生まれてから何もないと思っていた街は実は輝いていたことがわかった、でもそんな街から無くなっていくものもある。悔しいけれど、じゃあいなくなってしまうから意味がないのか。
そんな中で生徒達がAqoursに「この学校の名前を歴史に残して欲しい!」と言葉をかけてくれたのがまさに「いなくなるのなら いたことをしりたい」ということ。それは画面のむこうの僕の言葉でもありました。いなくなってしまう自分に意味を見出だしたいのは僕も一緒です。それは勝手に思っていることですが。だからこそ自分には恩を返したい人達がいるのですが、その話を始めるともっと前から話さなきゃいけない、もっと長くなるのでこの記事ではやめておきます。





まとめ
ほとんどBUMP OF CHICKENと自分のよくわからん感性の話になりました(歌詞を分解するやつも結局やってしまいました)。まあ1つくらい内面の告白のような、そういう記事があってもいいかなあと思って触発された勢いで書きました。自分という個人にもっと触れるのはもうしばらく後になると思います、人に見せられるような誇れるようなことをしたりそういう人格だったりではあまりないので。
BUMP OF CHICKENの楽曲がほんとうに好きなので、たまにこういう記事でちょっとずつ日記みたいなことが出来ればいいなあなんて思っています。もしかしたら恥ずかしくて消すかもしれませんが。

というわけでここまで閲覧いただきありがとうございました。これからも末永くこのブログをよろしくお願いいたします。

BUMP OF CHICKENR.I.P.

劇場版仮面ライダーエグゼイド トゥルー・エンディング ネタバレ感想

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8/5に公開された

「劇場版仮面ライダーエグゼイド トゥルー・エンディング」

を公開初日に観に行きました。

TV版を1話からリアルタイムで毎週楽しみに視聴していたので「ドクターバトルの終焉」「真のエンディング」との触れ込みに

心が躍りました。
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パラレルワールドの世界や本編での分岐ルートではなく本当に本編の最終回、トゥルー・エンディングだということでいったい「仮面ライダーエグゼイド」という作品はどこに着地するのか、真のエンディングとはいったい何なのかを公開日まで心待ちにしていました。

 

結論から先に言うと、このトゥルー・エンディングとは

この作品が一年を通して本当に伝えたかったこと、今までTV版で描いてきたことのさらに向こう側のお話

がぎゅっと詰まった作品だったように思います。以下はネタバレを含みつつ拙い感想を書いていきますのでまだ劇場に足を運んでいない方はぜひ作品を視聴したあとに読んでいただければと思います。

 

 
 
トゥルー・エンディング

 TV版の序盤では仮面ライダーエグゼイドこと宝生永夢は小児科の研修をしており、このトゥルー・エンディングは永夢が以前研修の時に担当した、病を抱えた少女・星まどかと対話をするところから始まります。

まどかは極めて症例の少なく手術の難しい脳腫瘍に侵されており、手術が上手くいかなければ余命は残りわずかだと言います。

 

「君はきっと治る」と励ます永夢に対し

「じゃあ次の運動会は出れるの?」

「私は徒競走で1位になれるの?」

「うそつき!」

 と、まどかはふさぎこんでしまいます。 

 

TV版にて永夢は様々なゲーム病の患者を治療してきましたが、突発的に感染したゲーム病に苦しんでいる患者の「命を救う」だけではなく、今回は医者として避けては通れない「残りわずかな命とどう向き合うか」ということにも焦点を当てられていました。

 

その頃病院の内外で大規模な新型ゲーム病のパンデミックが発生し、永夢や仮面ライダーブレイブ・鏡飛彩、仮面ライダースナイプ・花家大我、仮面ライダーポッピー・仮野明日那/ポッピーピポパポの手にも刺客の魔の手が忍び寄ります。

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病院内にて襲いかかるライダー、仮面ライダー風魔。無数に襲いかかる忍者プレイヤーや風魔の忍者ならではの分身といった能力に太刀打ちできず、飛彩と大我、そして本来バグスターであるポッピーも何故かゲーム病に感染し、昏睡してしまいます。

謎の男、南雲影成は永夢との戦闘後まどかの病室へ。謎のウイルスをまどかに散布してそのまま姿を消してしまいます。

 

バグスターにさえも感染するゲーム病の謎を突き止めるべく、どうやら衛生省に拘束されていたらしい仮面ライダーゲンム・檀黎斗(檀黎斗"神"だァ!!)は一時的に釈放、仮面ライダーレーザー・九条貴利矢と共に調査をすることに。

仮面ライダー風魔に変身するための新型ガシャット「ハリケーンニンジャ」を作ることのできると思われる人物を探すべく幻夢コーポーレーションを訪れる二人。社長席には

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かつてレベル4ガシャット「ジュージューバーガー」を開発した小星作の姿が。社長室内にはハンバーガーのグッズやマキシマムマイティX開発時の没案である

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「ボーズ・オブ・テラ」のポスターもあり小ネタがなかなか面白い。

 

話を本編に戻しますと、もちろん小星作はバイオテロを起こすような人間ではないのでガシャットを開発していません。しかし、かつて檀正宗が社長として君臨していた頃に彼が「仮面ライダークロニクル」の世界進出のためVRを主軸とした外資系ゲーム企業「マキナビジョン」との交渉をしていたこと、交渉が頓挫したのちゲーマドライバーなどの設計図のデータが何者かにハッキングされ盗まれていたことなどが作の話から明らかになります。

 

舞台は変わってポッピーが目覚めた場所は少女・まどかの通っている小学校で、運動会が行われていました。ポッピーの目にした光景は異様なもので、

 

小学校の先生をしている花家大我。

「位置について…用意…バァン。」

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※画像はイメージです。

 

ランドセルを背負って体操服で徒競走に参加する西馬ニコ。(こら💢)

 

父親として運動会に参加している鏡飛彩。

「パパに撮れない物はない。」

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※画像はイメージです。

 

そして鏡飛彩、星朱美の娘として少女・まどかの姿もそこにありました。

思わず飛彩のところに駆け寄るポッピー。しかし「一瞬の瞬間を"切り取る"」カメラでまどかの徒競走を撮影しようとしている飛彩にはそもそもポッピーに関しての記憶がないようで話が通じません。

徒競走で1等になったまどかの元にやってくるのは同じく1等賞を取ったニコ。そのときまどかの頭上に現れたのは仮面ライダークロニクルのガシャットロフィーにそっくりな物体でした。

お昼休みになりお弁当のピザを綺麗に切り分ける飛彩。家族団らんに喜ぶまどかの頭上には再びあのガシャットロフィーが…と思いきやまどかの顔に笑顔はなく「これで喜んでくれるかなあ…」と口にします。

 

仮面ライダーエグゼイドのTV放送では出来なかったいわゆるギャグ回のような成分が盛られている運動会のシーンは観ていて笑いが込み上げるシーンもありましたが、その中にもある要素が含まれていました。

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父親という要素です。飛彩の父・鏡灰馬は飛彩のような威厳はないどこか抜けたような人物として、それでいて飛彩の恋人・小姫を救おうと仮面ライダークロニクルに参加する勇気を持ち合わせた人物、飛彩が医者を志した人物としてもTV放送では描かれていました。運動会における飛彩は偽物の役割といえど父親ゆずりのような子供への愛情の注ぎ方だったのではないかと思いました。

父親といえばTV版では檀黎斗の父親・檀正宗や飛彩の恋人・百瀬小姫の父親、息子を失いゲーム病について独自調査していた刑事なども連想されます。正宗は実の息子をゲーム名「デンジャラスゾンビ」と呼び、黎斗にはコンテニューがあるとはいえ幾度も戦闘でゲームオーバーにする冷酷な人物として描かれ、小姫の父親は小姫の消滅に関して「飛彩君には責任を感じないで欲しい」と、飛彩が悔いを持って償いを何年も求め続けていたことを理解している人物として登場しました。ここにも仮面ライダーエグゼイドにおけるある種の父親像が存在していると思います。

 

話を戻すと、舞台は変わってマキナビジョンのオフィス。

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マキナビジョン社長であるジョニー・マキシマと影成が協力関係にあることを突き止めた九条貴利矢。どうやら感染者はVRで作られた世界に送り込まれているらしく、それによってバグスターであるポッピーもVR世界に送り込まれたようでした。しかし影成が突然ウイルスを散布したことによりマキシマ、貴利矢共にゲーム病に感染しVRの世界に。影成は再び何かの目的のため行動を始めます。

 

一方でVR空間を利用していることを同じく察知していた黎斗は永夢と協力。
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幻夢VRなるVRの空間に入り込める装置とガシャット「マイティクリエイターVRX」を永夢に装備させ、時間を稼ぐために車でアジトを脱出します。

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ナンバープレートの「し 96-10」に製作陣の本気を感じます。

 

車が運転不能になったことで仮面ライダーゲンム ゾンビゲーマーとして忍者プレイヤーと戦闘を始める黎斗。しかし数で押される黎斗は車を守りきれず、とうとう車の中に忍者プレイヤーの魔の手が届く…

 

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車の中にいた白衣に包まれた人物は永夢ではなくバグスター・パラドでした。パラドも戦闘に参加し永夢がVR世界を攻略するための時間を稼ぐことに。

命の大切さを知ったパラドが永夢と同じ白衣にその身を包むという展開はとても驚かされ、大興奮しました。

 

しかし黎斗ことデンジャラスゾンビは分が悪いのか体力を削りきられゲームオーバー。例のごとく土管からコンテニューするも黎斗は驚くべき言葉を口にします。

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「残りライフ1か…」

82個あったライフ(TV版41話終了時点)も残りライフ1まで削れてしまった黎斗。彼の身にいったい何が起こったのか。しかし黎斗は残りライフを確認してもためらうことなく再び変身し、戦闘を再開。本来クリエイターであり神(?)という絶対者の立場にも関わらず常に前線に立ち続けようとする黎斗の姿がここでも描かれています。しかしながらここでようやく黎斗は普通の人間と同じように1つしかない命で戦うことに。

※TV版42話にてゲムデウスウイルスの完全な抗体を作るため残りライフ4になっていたことが発覚。残り2つのライフはどのように削られるのか。

 

パラドと黎斗の企みを察知した風魔こと影成がVR世界にやって来たことでこちらも永夢との戦闘が開始。満を持してマイティクリエイターVRXにて変身します。

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「ノーコンテニューで、ゲームを作るぜ!」

マイティクリエイターVRXはゲームそのものを作るゲームということで空に描いた絵を実現させ戦うクリエイターゲーマー。ゲームクリアの存在しないVR世界にゲームクリアを創造し、人々を現実世界に連れて帰ります。が…

「ずっとここにいたい!」と永夢の手を取らずまどかのみが暗闇となったVR世界に残留。他の感染者は目が覚めたもののまどかのみが目を覚まさない。「どうして…」と永夢は呟きます。

 

風魔がエグゼイドに敗れ現実の世界でも目を覚ました医者達や永夢が黎斗・パラド・影成の元に集結。影成に今回の事件の動機を問い詰める永夢。そこで影成が語ったのは「まどかは自分の娘であり、手術しなければ余命はわずか、成功しても抗がん剤放射線治療によって後遺症が残る。あの娘の人生が辛いものになってしまうのを防ぐためにVRの世界を作り上げた」というものでした。命を救って、しかし救って終わりではなくその先にも困難なことはあるのだと影成は思いを口にします。

自分の娘を、娘の幸せを思うが故に「医療」という「現実世界」を捨て「ゲーム」の世界で生かそうとした影成。そんな影成に対して永夢は「未来に希望があれば人は生きていける。子供を笑顔にするのは大人の責任だ!」と影成を叱咤します。

 

医者として、目の前の命が消えていくことに対して諦めるという考えを今まで否定してきた永夢ですが、今回の劇場版では人を治して終わりではない、その後の人生に対して向き合う、という問いかけがなされていました。影成の言葉も影成が単純な悪人ではなく、まどかの幸せを願った人物というだけに観ているこちらからすれば全ての言葉を否定できるわけではありません。まどかという病気の娘を見てきた影成もまた一人の「父親」なのです。ただの悪人を懲らしめて終わりという単純な話ではないところにエグゼイドの真価を感じます。

 

そこに突如として現れるマキシマ。まどかがVRの世界で作り出したガシャットロフィーを回収したことで力を得たマキシマは

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「I am Gooooooooood!!」

仮面ライダークロニクルのラスボス・ゲムデウスとなって永夢たちに襲いかかります。ライダー達よりも遥かに巨大なゲムデウスの前に一撃で変身解除に陥る永夢・飛彩・大我・貴利矢の4人。残った黎斗とパラドはゲムデウスに立ち向かいますが…

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ゲムデウスはライダーと同じサイズになり力が押さえ込まれ、ゲムデウスは撤退。しかしそこに黎斗・パラドの姿は見えず絶望する永夢たち。永夢の叫びが響き渡ります。

 

一時病院に帰還するとまどかの容態が急変。脳腫瘍を取り除くべく天才外科医である飛彩、そして永夢、明日那はまどかの手術に踏み切ります。一方大我、貴利矢は弱体化している内にゲムデウスを叩かんとゲムデウスの元へ。しかし風魔の妨害により風魔との戦闘が開始します。

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ニコは今回劇場版では戦闘に参加せず大我を送り出し、「お前はそばにいてやれ、一緒に1等取った仲だろ…」と大我の言葉を受けまどかに寄り添います。

 

スナイプとレーザーが戦いを繰り広げる一方手術室ではまどかの脳腫瘍そのものは取り除いたもののまどかのゲーム病が発症し手術が続けられない状態に。そこで永夢が取り出したのは…

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黎斗の持っていたプロトマイティアクションXガシャットオリジンでした。レベル0のライダーにウイルスの抑制効果があることを思い出しガシャットを起動する永夢。まどかのゲーム病が抑制されたことで手術を続行する飛彩達。

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「絶対に助ける!」

飛彩もまた子供の笑顔を守るために戦っているのです。

 

風魔を倒しゲムデウスと交戦するスナイプとレーザー。「たとえこの身が滅びようと…お前を止める!」と言い放った大我でしたがその強大な力の前にゲームオーバー寸前に追い込まれ、ゲムデウスの攻撃が命中する…

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爆風を吸収し現れたのは仮面ライダーブレイブ・レガシーゲーマー。「命を粗末にするな…!」と大我・貴利矢の体力をレガシーの力で回復させゲムデウスに挑みます。

恋人の小姫という戻らない命や、TV版で多くの人々のために自らを犠牲にしてグラファイトとの決着を着けようとした大我が重症を負ったこと、父親の灰馬がライドプレイヤーとなってバグスターに挑んだこと、全てを見てきた飛彩だからこその台詞だと思います。 

 

永夢も合流し変身が解除された影成の元へ。手術は終わったもののVR世界に送られたことで肉体が生きようとする意志を失っているためまどかが弱っていると告げる永夢。まどかがVRの世界に残ったのはあなたのためだと聞き影成は動揺、あの娘が生まれてすぐに姿を消したのに覚えているはずがないと言います。

「まどかちゃんが本当に望んでいるのは運動会に出ることでも、徒競走で1等賞を取ることでも、お弁当を食べることでもない。あなたが笑顔でいることなんです。」

「お父さん、あなたの本当の望みはなんですか?」

永夢は娘を思う一人の父親として影成に問いかけます。「患者の笑顔を取り戻す」ことだけではなく、その家族の笑顔を取り戻すことが永夢が語った未来への希望なのだと思います。

 

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レーザーは戦闘から離脱しレベル2のバイク形態で影成の元へ。娘の元へ行く決意をした影成を病院に送り届けるために走り出します。

レーザーターボの登場でバイク形態はもう見ることが出来ないと思っていたので九条貴利矢としてレベル2の姿を再び見ることが出来たのはとても嬉しかったです。

 

レガシーゲーマーとスナイプ・シミュレーションゲーマーの奮闘もむなしく、ゲムデウスの力を押さえ込んでいた黎斗とパラドがゲムデウスから排出されたことで本来の力を取り戻し街の広範囲をゲームエリア化、街を破壊していきます。


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「全ての運命は…俺が変える。ハイパー大変身!」

生きていたパラドと協力(?)し燃え盛り破壊されていく街をバックに永夢がムテキゲーマーに変身。ゲムデウスマキナに挑みます。しかしゲムデウスの力の前に流石のムテキゲーマーも反撃を受け、苦戦を強いられます。

 

病院にたどり着いた影成はまどかの元へ。妻の朱美と共にまどかの小さな、本当に小さな手を握り「本当の望みは…まどかに生きていて欲しいんだ」と、ゲームの世界ではなく現実の世界でまどかと共に生きることを選んだ影成。それに応えるようにまどかは目を覚まし、こう言いました。「初めて見たときからわかった、この人はわたしのお父さんだって。」

娘の幸せを願いゲームの世界を作り上げた父親と、父親の幸せを願いゲームの世界に残ることを選んだ娘とのすれ違いは解消され、その思いは一つになりました。家族の新たな日常が今ここから始まっていくのです

 

ゲムデウスの攻撃に押し潰された…ように見えたムテキゲーマーは攻撃を受けとめ反撃、キメワザを発動。

「どんな運命だろうと…変えられる!」

そして…

 

エグゼイドはゲムデウスを撃破、一連の騒動は幕を閉じました。

 

 

 

エピローグ

病院ではまどか、朱美、影成の3人で笑い合っている。治療はこれからも続くが、きっとあの家族なら乗り越えられると希望を抱く永夢たち。3人の家族がこの先の未来をようやく見ることが出来たトゥルー・エンディング

 

CRにて作業をする貴利矢の元に現れる明日那。バグスターが根絶されたわけではないが、どうやらバグスターのワクチンはもう開発されているというような会話が聞こえる。黎斗も残りライフ1を減らすことなく生還し、神の才能で新たなゲームを拘束されながらも開発している。

ワクチンという手段でバグスターと共生すること、そして何より貴利矢、明日那、黎斗というバグスターが人間の世界で生きているというバグスター組によるトゥルー・エンディング。

 

手術における新技術にVRが利用されることとなり医師に研修を行う飛彩。そこに父・灰馬が「衛生省から直々の依頼だ」と飛彩に手術を頼む。飛彩はその問いかけに微笑みかけ、了承する。

大我はゲーム病の専門医院として診療所をオープン、ニコを助手としてこれからもゲーム病を治すべく戦っていくのだろう。大我は微笑む。

過去を振り切り未来を見ることができた二人がようやく笑うことができたトゥルー・エンディング。

 



TV放送1話と同じように病院の中庭でギャラリーに見つめられながらゲームをプレイする永夢。

「もう一回やるぞ!」と意気込む永夢の元に看護婦が「いつまで研修医気分なんですか~」と耳を引っ張り痛がる永夢。ネームプレートには「医師 小児科 宝生永夢」の文字が。

そうこうしているうちに緊急通報が入り急いで向かおうとするも転ぶ永夢。そして…

「行こう…パラド」

姿の見えないパラドに向け呼び掛け、現場に向かう永夢。

研修医を続けてきた永夢が長い戦い、そして医療との関わりを経て医師になるというトゥルー・エンディング。とても美しい終わり方でした。

 

 
 

劇場版はラスボス・ゲムデウスを倒す映画ではない

この見出し通り、今回の劇場作品は仮面ライダー風魔であったりゲムデウスといった真の悪役を倒して終わるトゥルー・エンディングではありませんでした。命を救った後にも困難が待ち受ける未来に向かって希望を生み出す、というトゥルー・エンディングだったと思います。

これに該当するのは影成だけではありません。ポッピーピポパポは今回の劇場版では本人いわく「世を忍ぶ仮の姿」である仮野明日那として出演している時間が多く、TV放送でポッピーが「自分は人を消滅させて生まれてきた存在」であることに悩んだことを受け、元々人間であった九条貴利矢がバグスターになった後もCRの医師となったように、人間と共に生きる人間であることを選んだバグスターと言えるのではないかと思います。

(TV版最終回のエンドロールでは「ポッピーピポパポ」の名前のみがあったことからポッピーに関してはトゥルー・エンディングとはやはり明確に差を付けているのでは?と思いました。)

 

鏡飛彩、花家大我にしてもゼロデイの因縁を終わらせたとしてもゲーム病が根絶されているわけではありませんでした。(劇場ラストのシーンから推測) 彼らはこれからもバグスターに立ち向かわなければいけませんが、彼らに希望が無いわけではありません。飛彩は永夢の外科研修の担当だったことやラストシーンのように未来の種に希望を託していることそして大我はニコというこれからの未来を作る子供を信頼していることが彼らにとっての希望と言えるでしょう。

 

永夢の今回の目的はゲムデウスを倒すことではありません。まどかを、そしてその家族である朱美や影成を笑顔にすることです。運命を変えるためにムテキゲーマーに変身したのだからゲムデウスに勝って当たり前なのです。患者の、そしてその家族の笑顔を取り戻し、未来への希望を作り上げた永夢が負けるわけがない、ということです。

これまでの長い物語の中で永夢が多くの命を見つめ、最後に小児科という選択をし医師になるというエンディングはとても美しく、まさにトゥルー・エンディングの題にふさわしかったと思います。

 

<追記>

8/27に迎えたTV版最終回では永夢が「ゲーム病で消滅した人々は『消滅という症状』に侵されている」と説明しました。

消滅した患者を諦めずこれからも救うべき患者なのだと、病気に向き合っていく信念が揺らぐことはありませんでした。

そして最終回後に「トゥルー・エンディングの時間軸は最終回後」と発表されました。本編ではクロノスとの攻防戦といったゲーム色の濃さグラファイト・パラド・ポッピー(そして元人間の貴利矢・黎斗)に代表されるバグスター達の命の向き合い方が強調されていた一方、トゥルー・エンディングとは本編での「医療」をさらに深めた、本編で描けなかった人間の物語を最後まで描ききった作品であったと改めて思いました。

 

まとめ

劇場で明かされなかった謎はこれから残りのTV放送で明かされるとのことなのでとても楽しみです。一度観ただけではまだ把握しきれていないシーンやTV放送前では謎のまま残っているシーンも多く存在するので最終回後に再び観に行こうと思います。

ここまでご覧いただきありがとうごさいました。

巡礼/サンシャイン!!内浦・沼津

まえがき

巡礼時のことを書く前にまずは言わずと知れた1stライブ「Step! ZERO to ONE」について、沢山の方の多くの感想がきっと言いたいことをほとんど言ってくれていると思うので全体を通して少しだけ感想をまえがきに述べたいと思います。

 

ライブ最中そして終わった後一番に感じたのは「楽しかった」です。感動で身が震えました!というのももちろんあるのですがやっぱりメンバーの方々やLV会場でのたくさんの人の笑顔がとても記憶に残っているので一番は「楽しかった」んだと思います。

そして多くの方が述べていたようにメンバーの方々が作品を背負いながらもAqoursとしてまさに一歩踏み出すライブを成功させたことに勇気付けられたライブだったと思いますし、けして重く訴えかけてくるのではなく楽しさの中で背中を押してくれるやさしい作品だったと改めて思いました。ライブ終了後多くの方々が自分にもできることをやりたい!と意気込んでいるのが見られ、Aqoursのメンバーの姿はもちろんそういった人達の姿にもまた背中を押されるように思いました。

ライブの感想としては短くなってしまいましたが、後は多くの方々が代弁してくれていると思うのでまえがきを終えて今回はひとまず巡礼の話をします。

 

 

4:50東京出発~内浦

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1日で巡るためには朝から!!ということで始発に乗って静岡の方面に向かいました。同行した巡礼経験者に4時前起きを宣告されたので驚きつつも駅に向かいました。

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そして東京→三島→三津シーパラダイス前と8:30ごろには内浦に辿り着ける順調なペースで朝を迎えることができました。

同行した二人は前回三津シーパラダイスを長めに見て回ったので今回は内浦のAqoursゆかりの場所(?)を巡りつつのんびりとてくてく歩き回ることにしました。写真はゆかりの場所で撮ったものです。

到着後おやつにしようということで朝に松月さんにておやつを食べてしまいました。かんかんみかんタルトとみかんジュースで体に循環!みかん!だったのですが写真を撮り忘れてしまいました。(無念ポイント)

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そして内浦、なんと言っても海がとても綺麗でした。晴れていたので写真の映えもよく見ているだけでとても癒されました。自分が東京にいるから慣れていないだけと言いつつも、横を向けば雄大で綺麗な海が広がっているという場所で育てば自分の土地や海が好きになるんだろうなあと思いました。

 

 

10:30内浦~あわしまマリンパーク

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10時過ぎに朝のおやつを終えてあわしまマリンパーク淡島神社へ。チケットもクルーザーもAqoursてんこ盛りで向かう前から巡礼初心者の自分はすげえええええええの一言でした。

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まずはカエル館へ。館前にあった果南ちゃんセンターおめでとうの垂れ幕にシングルのタイトル「HAPPY PARTY TRAIN」が書かれていたことにテンションが上がりました。

カエル館自体もとても楽しかったです。ぬぼーっとした両生類たちは眺めているだけでも可愛らしくて癒されましたし、土に潜るカエルが丁度何匹か土から出ていてくれたり同行した二人とカエルを探したりするのもまた面白かったです。

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カエル館の後は淡島神社へ向かいました。運動しない環境に身を置きすぎたせいでひぃひぃ言いながら登るはめになりました。御堂に着いてお祈りしてから4話のダイヤさんがいる場所にいきました。うーん絶景。

登り下りにかけた時間は恐らく30分ほどでしたが、外出する際に選んだ靴を間違えたせいでこのあたりからかかとにそれなりの痛みを抱えたまま巡礼することになりました。靴選びを怠るのダメ、ゼッタイ。

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その後は水族館を見て回ったり、アシカショー・イルカショーを観て心を洗濯しました。フリスビーをキャッチしたりボールを足で挟んで持ってきたりと芸をするアシカや飛び上がるイルカがこれまた可愛かった。元々水族館の類いで魚がひらひら泳いでるのを眺めるのが好きなので心のとげとげしていた部分が一気に安らぎました。

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そして昼食は離宮Aqours丼を頼んで「おいしい」「おいしい」を連呼しながら完食しました。お味噌汁であたたまりながらお魚を口にするのがたまらなくよかったです。海鮮とご飯の相性。

その場にいた3人全員が日常生活でケチる習性があったので頼む前もどうしようか悩みましたが頼んでよかったなあと思いました。海苔は3人推しがバラバラなのに1人も被りませんでした。(無念ポイント2) でも花丸ちゃん可愛い。

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その後淡島にさようなら。1日で回りきるためにあわしまマリンパークではあまり多くの時間を割けなかったので次はもっとよく見て回りたいです。

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もちろんここは撮りました。

 

 

15:30沼津港~沼津

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あわしまマリンパークからバスで揺られて沼津港の辺りにワープした後びゅうおの方面に向かいました。BD4巻表紙の場所を写真に納めることができてリトルデーモン冥利につきました。

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びゅうおからの絶景。途方もなく広がるお昼過ぎの海がここまでの行路で疲れた自分を癒してくれました。11話でマリーさんがこの場所を選んだのもこの広がる海を見ればきっと悩みを話してくれると思ったのかもしれませんね。ちなみに嫉妬ファイア~~~~~のあたりの場所から撮りました。

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その後堕天使の宝珠を3人で分け、クリアファイルは譲ってくれました。友人に感謝。

このあたりから「食」を優先しようとしてきたためか持っていった資金に難が出始めました。(無念ポイント3) 多目に持っていくべきだった。次は深海水族館を回ってみたいです。

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その後トリの沼津に向かう途中で欧蘭陀館にて早めの夕食。写真のオムソバを頼みケチャップで件のヨキソバを再現しようとしましたが馬鹿なので片側ではなく全面にあのマークを描きました。ヨーソロー。

そしてこのオムソバ、絶品でした。焼きそばを包む卵がふわふわとろとろしていて甘味があり、中の焼きそばはもちもちした濃いめの味付けでとても美味しかったです。今まで食べてきたものの中でもこれは美味しい!と思えるほどのものだったのでサンシャイン!!とは関係なく沼津に行くならご飯はここに行きなさい!という場所でした。これ以降の同行した二人との会話の半分くらいは「オムソバが美味しい」でした。美味しい。

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その後歩みを進め沼津に到着。CDのドラマパートやアニメの舞台に立ち寄りました。本屋さんにて花丸ちゃんの台車に広告が乗っていたことにテンションを上げたり善子はこういうところに住んでるのか...などという想起をしました。

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そして最後はデザートを求めてコラボカフェ。自信たっぷりにGuilty Kissのパフェと津島善子のドリンクを頼みましたが、カフェが屋外に仮設テントのように建ててあるのと夜だったのが合わさり凍えながらひえひえのパフェとドリンクを口にしました。実際ドリンク系を注文していたお客さんは自分達以外にいませんでした。それでもパフェとドリンクでダブルでイチゴを味わえて美味しかったです。

コースターはダイヤさんと夢で夜空を照らしたいでした。推しを引く運を持ち合わせてはいませんでしたがやっぱりどのキャラも可愛い。そして店内ではAqoursの楽曲のPVや本編での楽曲の映像がループされていて、秋の再放送以降サンシャインの本放送を観る機会がほぼなかったので1stライブのこともあり、どの楽曲もアニメと合わさり心を動かすパワーがとてもあったのだと再認識させられましたし、店内にて心を動かされました。

食後は沼津からさようなら。東京に向かい長い長い巡礼の旅を終えました。

 

 

まとめ

巡礼に行って感じたのが、今こうして歩くことになったのはAqoursを求めてのことだったけれどこの土地にきて癒しを感じているのはこの土地そのもののおかげ、ということでした。サンシャインから興味を持って何度も沼津を訪れている方々がいるのは「その土地にAqoursを求めている」というよりは、「Aqoursによってたどり着いた土地そのものが心を癒す」からなんだなあと思い、それが作品のテーマにも繋がっているラブライブ!サンシャイン!!の凄さを改めて実感しました。それと同時に、いわゆる過疎である地域を興すためには町民の方々がする努力だけでなく、訪れた人々がその土地のよさを伝えていくこともまた必要な要素なんだと思いました。

 

そして10数時間の長旅を終えて地元に帰って来たときにもまたどこか安心感がありました。アニメでも語られてたように自分の住んでる町なんて何もないところだと思うけれど、それでも安心感はあった。町の責任じゃなくそれは自分たちの気持ち次第なんだ。6話等で伝えたかったのはそういうことだったのかかなあなんて思いました。

 

はじめての巡礼でも密度の濃いものにできましたが回りきれなかった場所もあったので、2回目以降はそこを巡ったりアニメ2期以降ピックアップされる場所に行ってみたいなあと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。以上、いちリトルデーモンによる聖地巡礼の感想でした。

サンシャイン!!のくれたエール その2

サンシャイン!!のくれたエールその2です。

その1からとても遅くなってしまいましたが、アニメ版ラブライブ!サンシャインが先週で再放送も終了し一つの区切りがついたところで、自分が最初に視聴して一番強く感じたことを今年最後に締めとして納めたいと思います。

 

千歌の母親と千歌との関係

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#13では千歌の母親が初めて登場しましたが、実際に千歌と会話をしていたのはAパートの後半のみでした。

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今度はやめる?

ううん、やめないよ

千歌の後ろ姿を見つめる母親のカットや、母親の発した「今度は」という言葉は千歌の飽きグセのようなものが想像でき、千歌自身が長い間苦しみ続けていた「普通」との葛藤をこの母親もまた共に分かち合い、見てきたのではないかと感じさせるものでした。もしかするとスクールアイドルの活動に対する千歌の意欲に対してもこの段階では千歌の母親は不安を抱いていたのかもしれません。

 

舞台は変わって予選会場、千歌の母親も含め応援に駆けつけた町民や学院の生徒たちの見守るなか千歌たちAqoursのパフォーマンスが始まり、そこで繰り広げられたのはメンバー全員によるAqours誕生から現在までの道程を伝える、というものでした。

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千歌ちゃん、やめる?

...ゼロだったんだよ、悔しいじゃん!

個人的にはこのやりとりとそれに対する千歌の母親の反応がこの話の根幹を成すテーマであるように感じました。

親友の曜よりも千歌との距離が一番近いはずの母親が、曜の言葉によって千歌の「悔しい」という言葉を受けて何かにハッと気づく。これは長年寄り添ってきた千歌が様々な出来事や出会いを経て成長したことに初めて気づいた「母親」としての気づきであり、楽しいことも困難なことも経験したAqoursの軌跡に惹かれ、共感した「観客」としての気づきでもあるように思いました。千歌のことを一番にわかっている人、千歌たちAqoursのことを知らない人、その両方に「共感」を与えることができたのだと思います。

 

 

MIRAI TICKET~最終シーン

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みんな、輝こう!

ゼロからイチへ、というかけ声と共に始まったMIRAI TICKETの最中でもさらに光に向かって手を伸ばす千歌はこう叫びました。ここでいうみんなとは一体誰なのか。きっと町の人々や生徒だけでなく、千歌という「普通」に自信の持てなかった人間に共感した、視聴者を含めた人々全員への呼び掛けであり、同じ苦しみに悩む人々に代わって輝くことを体現したものがMIRAI TICKETだったのだと再放送後改めて思いました。Aqoursだけで輝くのではなく、誰と言わずみんなにむかって呼びかける千歌の行動はエールでした。

 

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君のこころは輝いてるかい?

曲が終わり、光の中に溶けていく千歌。役割を終え、共感をもとに強く結び付いていた視聴者とは分離し、そして最終シーンにおけるこのセリフでアニメサンシャインは幕を閉じました。

強制するわけでもなく「次は君の番だよ」と、輝きを体現した千歌の最後のこのセリフを聞けたことで自分はこの作品は共感をテーマにしたエールだと思うことができました。

 

 

#13は他にも学院の生徒がスクールアイドルに参加したいと言い出すシーンなど、いろいろなことを考えられるシーンがとても多くて好きです。今回は千歌というキャラクターを中心に文を進めていったので、次に#13について書く機会があればまた違った視点で物語を追ってみたいと思います。

ひとまず幕を閉じたアニメサンシャインに感謝しつつ、あるかもしれない2期に向けて期待を膨らませていこうと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

<追記>

テレビアニメラブライブ!サンシャイン!!2期決定おめでとうございます。

放送から1年経った今でもAqoursの9人のように輝きを体現することが僕には出来ていません。それでももう少しだけAqoursの行く末を見届けていきたい。逃避するような悪い意味でなくその先にある輝きを見つめていたいな、と思います。