ガラスの目をした猫とトコトコ

とりとめのない話をします

SDガンダム Gジェネレーションアドバンス その1

特に書くことが無くなったので好きなゲームの話でもしながら久々にプレイします。

GBAの「SDガンダム Gジェネレーションアドバンス」やります。
昔出たやつにSEEDのストーリー足したやつなのでSEEDまでのキャラクターがクロスオーバーして1つのシナリオを進めていきます。
簡単に導入を説明すると初代ガンダム連邦vsジオンの構図をベースにSEEDほか様々な作品の勢力が参加していく感じです。


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1話はSEEDの導入をベースにキラを操作して進めます。
このアニメーション+「あんなに一緒だったのに」の打ち込み音源が流れるんですけど音楽がほんとにすばらしいです。
色んな作品の曲がバンバン流れるのでそれ目当てに買ってもいいくらい曲がいいです。



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途中でクルーゼとムウさんも乱入して戦闘。
話がややこしくならないよう連合が連邦軍に統一されてるせいかムウさんはメビウス・ゼロじゃなくコアブースターに乗ってます。今回は違いますが2周目以降選べるモードだとNT専用ジムジャグラーに乗ってます。
このゲームだとムウさんの空間認識能力がNT能力とイコールになってるのでファンネルも使えちゃったりします。



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コロニーで戦闘したせいでコロニーが崩壊したのでルナ2部隊に合流せんとアークエンジェルが向かうところで1話終了。2話以降はザフトとジオンが組んでボコりにくるのでどんどん話も面白くなってきます。



続くかわかりませんが1セッションにそこまで時間かからないのでちょびちょび更新してこうかなと思います。
投稿しなくなったら察してください。
ついでにタイトルも思い付かなかったのでタイトルも募集してます。

Merry Christmas

今年もこの曲の季節になったなーなんて。

ほんとに1年ぶりぐらいにPVといっしょに曲聴いたんですけどやっぱいいですね。



僕クリスマスの街全体が浮わついた雰囲気けっこう好きなんですよ。

自分がどこか遠出するわけでもなく普段通り一日を過ごす日でもそういう雰囲気ってやっぱあって、毎年無駄に受かれてたりするわけですけどそういう特別感に飲まれるのが好きだったりするのかもしれないです。



僕の大好きなBUMP OF CHICKENの「Merry Christmas」。PVでも演奏してるメンバーそっちのけで街行く人は好きなことやってるけどそういう道を歩いてるだけの人でさえ今日は各々が何かしらの想いを秘めて歩いてるようなシーンが心暖まるし、この時期はやっぱりそういうの沁みますね。



別に友人や恋人と過ごすわけでもなく自分の仕事とか学業のことでクリスマスっていう日があんまり実感無い人も僕含めて沢山いると思うんですけど、僕はそれでもああ浮かれてるなって実感できるくらいの心の余裕というか、街全体に心を預けちゃう感覚がこれから先も残ってたらいいな…と何となく思います。

サンタクロースにお願いしようかな。



どこに行かなくても特別な雰囲気にちょっと酔って、少しだけ人に優しくなれたらそれは凄く素敵な事なんじゃないかなってこの曲聴くといつも思います。



今日は僕これからバイト打ったら一日終わるんですけど、何となく今日のやわらかな雰囲気をちょっとでいいからわざわざこんな文章読んでくれた人と共有できたらいいなって思います。



今日はクリスマスイブだけど、皆様Merry Christmasということで。

今年もあとわずかだけどまだまだ沢山お話ししましょ。



BUMP OF CHICKEN、ラブソングマジ!?

つって新曲発表朝から歓喜しました。



ロッテのCMタイアップって2006年に「涙のふるさと」でやってたこともあってそれを色々調べてたら、そのときも最初公開されてたCMは歌だけで 「これはBUMPの曲 (藤原基央の声) だ!」「いやBUMPが『会いにきたよ』なんて言うか?」 みたいな議論になってたらしいですけど、今回も30秒のムービーだけで似たようなこと起きてましたね。

というか僕が勝手になってました。





ラブソングですよってリリースしたものは2000年の「リリィ」が最後 (とは言ったものの当時「天体観測」とか「スノースマイル」とかがラブソングと言われるのが嫌で斜に構えて否定してたところはあるのかもしれないけれど) だったので18年も経ってど直球のラブソング出したことになるんですけど、そのタイトルが「新世界」なのがヤバすぎて一人でゴロゴロしてました。

だって「Merry Christmas」って直球な言葉のときも「ええっ!?」ってなったのに「ベイビーアイラブユーだぜ」と来たらもう驚くでしょう。

別に悪い意味でなくそういう言葉を使って歌うことはないのかなとは思っていたのでなおさら。



そうは言うけどBUMP OF CHICKENの楽曲ってどれもラブソングではあるのかなと。

恋愛の歌としてのラブソングではないけれど、親愛とか慈しみとか、もっと広い意味で触れようとか抱き締めようとか言ってきた人達だったから、今回の曲も恋愛の匂いを漂わせつつも根本にあるものは変わってないんだなって言葉が沢山あったように思います。



あと最近の曲は自分と自分が話すというよりも明確に他者と繋がることを歌ってるのが多くなってるのかなと。

目の前に今はいない誰かのことを歌った「話がしたいよ」だったり、手を繋いで世界の中心を作った「Spica」だったり、ライブツアー終えてBUMP OF CHICKENの4人が何を感じたのかはわからないけれど明確に他人のカタチが出てきてるなあと思います。



「新世界」っていう言葉通り、BUMP OF CHICKENはまた新しい領域開拓したんだなってただそれだけはハッキリと感じました。

チープな言葉ですけど確かに言えるのはそれですね。




もう書くことないので最後にこの曲の一番好きなところだけ言うと、



「君と会った時 僕の今日までが意味を貰ったよ」

「明日がまた訪れるのは 君と生きるためなんだよ」



っていうように、「君」から何かを貰うことから始まった「僕」が最後には自分の意思で意味を見つけてるところが今のところお気に入りです。



そうやって自分の意思で言い切れるところまで来た後にそれでも最後に伝えたいのは、

「僕の今日までが意味を貰ったよ」

なのが自分はめっちゃ好きです。






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ベイビーアイラブユーだぜ

X-Kid

いつもみたいに適当に音楽の動画漁ってたらGREEN DAYの「X-Kid」がめちゃくちゃ良いなって気がついたんですよ。
すごく有名なのに今まで全然気づかなくてそれ故に良さにビックリしました。

ぶっちゃけ言いたいことはそれだけなんで後はどうでもいいんですけど。



日本的な風景とは違う、アメリカの郊外というかだだっ広い家にデカイ庭にっていうアメリカっぽい風景を感じられるような (アメリカ行ったことないので適当に言ってます。) どこかノスタルジックさのあるギターリフが心地よくてそれが気に入っていたんですけど、後で調べてみたらギターヴォーカルのビリー・ジョー・アームストロングが自殺で亡くした友人のことを書いた歌だということで、この落ち着くような雰囲気も納得というかこれはある意味でレクイエムなのだなと気づきました。



勿論そういう意味もあるのですけど、曲自体はただの哀悼の意味で終わってないのかなと。

過ぎてしまった青春時代の全能感のあった全盛期の後とか終わってしまった旅の静けさみたいなものをずーっと感じながら、それでもその後も続いていく、続けなきゃいけない歩みをそういう「your own glory」に向けて「shouting is over」さよならをして進んでいくまでの気持ちをもういないX-Kidに向けて歌ってるのかなって思いました。



曲に関してはそんな感じです。
この曲ギターで演奏しても凄く楽しいので聴いたその日からやってみてもまたそんな気分に浸れるというか、とにかく過去の郷愁を刺激されていいなって思います。




ここから全然違う話します。


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そういうわけでX-Kidで色々調べてたらビリー・ジョー・アームストロングギブソンレスポールスペシャル持ってる写真とか何枚も見たんですよ。



ギブソンのギターなんてプロなら共通して持ってて当たり前なので共通点というのはまあ馬鹿げてるんですけど、レスポールスペシャル見てたらやっぱり藤原基央さんが浮かんできたんですよ。

彼もまた同じタイプのギターで演奏をしているので。



それで過去のインタビューでBUMP OF CHICKENが共通してGREEN DAYを聴いてコピーしていた時期があったと言っていたのを思い出して、若き藤原基央さんはビリー・ジョー・アームストロングが掲げるレスポールスペシャルを見て何を思ったのか。

当時MVビデオやライブ映像まで見てたのかはわからないですし今やってるBUMPの音楽がパンクに寄ってるわけでもないですけど、今の藤原さんが使うことが多いのはギブソンレスポールスペシャルでその姿を見て自分はギター始めようって思ったので、やっぱりどの時代も変わらなかったりするのかななんて勝手に思いました。



ルーツじゃないけど、なんというか似たような体験?してるかはわからないけど出来ていいなって思った日だったので何となく書きました。






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でも僕の持ってるギターはそんな高いお金出して買うギブソンの純正品などではなく、レスポール・タイプのコピー品なのでした。


MVコンテストの優勝作品の映像は凄く好きです。

特に最後ぐちゃぐちゃの部屋に戻ってくるところがいいなって思いました。

傲慢

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他人に対して思いやりをもつ能力がなければ、そんな知能など空しいものです。



ふと冷静になる瞬間がある。
自分は安全圏からモノを言っているなという自覚に突然気づくことがある。





自分は幸福であると思う。

朝起きて何か食べて外に出て帰って来てまた何か食べて夜に寝て。

家庭も別段悪いわけでもなく平凡ながら幸福に暮らしていると思う。





そして突然冷静になる。

自分が日頃から口にしている幸福論や日常観はどうしようもなくある矛盾を抱えていることに気づくことになる。





この世には明らかに自分の、もっと言えばもう誰の手にも負えないような問題がウジャウジャとそこかしこに存在している。

そういった問題は自発的にしろ受動的にしろ目にしない日はないと言っていいと思う。
どこにでも転がっていて、ある日自分の元に転がり込んでもおかしくないものもある。

そうした状況を見るたびに自分の唱える幸福論など風が吹けば飛ぶようなものだと思い知らされる。





生死がかかった状況の下にいる人間にとって安全圏からの幸福論は非常に甘ったれたものに思えるし、事実としてそうなのだろう。





しかしこの冷静さには意味がない。

そうした問題に対して目を向けているポーズを取っている傲慢さ、自らの哲学をどうにもならないからと諦める怠惰さなど挙げればキリはないが、少なくとも言えるのはこうした冷静さは意味がないということだ。





何故なら幸福であることに後ろめたさを感じること、それこそが傲慢だと思うからである。

無自覚的にしろ自覚的にしろ自分が積み上げた哲学、もっと言えば自分の論を持つに至るまで積み上げてきたものの数々に対する侮辱をしているのと同じだからだ。





もちろんそういったものの数々も風が吹けば飛ぶようなものかもしれない、それはわかっている。

それでもそうした冷静さというものは本当に意味がない、全く意味がない。

幸福論を捨てることで諸々の問題にあたかも手を差しのべるかのようにしているだけの行為に何の意味もないことはわかっている。





それでもやはり意味がないという言葉で片付けてしまいたくないと思ってしまう。

これまでの自分を通ってきたモノがそんな排他的な考えのもとに産み出されたりしているとはどうしても思いたくないからだ。





アルジャーノンに花束を」というダニエル・キイスの小説がある。

内容は6歳ほどの知能しかないチャーリィという男性が手術を受け徐々に知能を高めていくというそんな話だ。

急激に知能を高めた彼は以前から抱いていた情緒、言い換えれば「やさしさ」を失い孤立していく。

冒頭の文章は著者がこの小説を執筆するにあたって基盤となる考えを記したものだ。





3年前の当時これを読み終えた自分はチャーリィの身の上を考えるとやるせなくなり著者のこの言葉をすっと受け入れていた。





しかし今は思いやりとは何なのかよく分からない。

もしもチャーリィが情緒もそのままに知能を上げていたとしたらこんな傲慢さと向き合わなくてはいけなかったのではないか。

手術前のチャーリィは本当にやさしさを持った人間だと言われていたが、そうしたやさしさは一体どこから来ていたのか、単に無我であっただけなのか、知能の上がった今の自分ができるやさしさとは単なる施しなのか。

考えることは様々だろうし「アルジャーノンに花束を」で言いたいのはそういうことではない。

そういうことではないが、考えてしまう。





やさしさとは恐らく僕が他人に施そうとしているだけの単なるエゴなのかもしれない。

例えば余計な口を挟まないようにするのはただ問題解決に怠惰であるだけで、逆に憂いてふと気分を盛り下げるだけというのも単なる傲慢なだけなのだろうとも思う。





乱暴な言い方をすればこの世にあるモノで自分が感銘を受けたものというのは当たり前だがそもそもその対象が限定されていると思う。

「見て欲しい」「聴いて欲しい」
そういう言葉も全て万人に向けているようで本当は残酷な言葉なのかもしれない。





けれどそうして産み出されたモノの数々はきっとそうした「想定」などはしていない。
勘繰りや無意味な悲観をすることなく、それでいて「みんな」とかそういう包括的な言葉の残酷さに関しては苦しみの毎日というかそれに自覚的にならざるを得ないことに葛藤してるものがほとんどだと思う。

これは事実かどうかは全く分からないが僕は信じたい。

僕が信じていたものはそうした葛藤の奥から産まれてきたものだと信じることで僕もそれをきっと受け止められていると信じたいから、そういうものだと思いたい。





BUMP OF CHICKENの「Smile」は2011年の震災の際にリリースされたチャリティーソングだった。

BUMPもメンバーの方々がチャリティーということに対する葛藤が発生しなかったはずがない。
喪失を歌ってきた彼らだからこそそうした喪失に対する無力さを絶対にわかっていたと思う。

それでも彼らはSmileをリリースした。
傍観者である彼らはそんな葛藤を乗り越えて世にモノを送り出した。





僕はSmileをあまり聴くことがない。というか気軽に聴くことができない。

イヤホンから流れるアルバムでも次の曲にスキップしたり、この楽曲のPVを見たのも1回だけだ。確かキレイな花畑の中でBUMP OF CHICKENの4人が演奏している映像だったと思う。





Smileもまた自覚させられる。こちらが決定的に傍観者であるということや、今まで抱いてきた自分の論が揺らぐのを本当に感じる。

そしてそれは恐らく彼らが通ってきた道だ。





アルジャーノンに花束を」も僕は1度読んだきり読み返すことなく本棚にずっとしまったままだ。

チャーリィを何度も喪失に追い込むことに耐えられないからだ。
いや、もっと言えば自分自身がチャーリィと別れることに耐え難い痛みを感じる。

読み返したとて、彼に何度も残酷さを突きつけるだけであると本棚に放ったままだ。





それでもやはりそれらの言葉は特に突拍子もないときに思い出すこともある。

それは冒頭の文章のような言葉でもあれば、

大事な人が 大事だった事
言いたかった事 言えなかった事

あまり聴くことのない「Smile」の言葉だったりするのだ。






結局こうして色々書き連ねてみても全く状況は変わらない。
生きている限りこうした自覚には何度も見舞われることになる。





傍観者であることには変わらない、明らかな大きな隔たりというものは事実としてある。





それでも僕はその傍観者であるという事実から全てを投げ出してしまうということはしたくないというワガママでずっと自分の哲学を持とうとしなければならないのだと思う。





僕がこれまで通ってきたモノの数々が直面してきた葛藤は少しずつ僕のカラダに浸透していっているといいなと思う。





僕が通ってきたものは吹けば飛ぶようなものではないというエゴを抱いて、僕はずっといちいち悩むしかないのだろう。

僕は僕のカラダを経由してきたモノたちのことをわかっているようでまだまだ全然わかっていないし、これから先もそうしたモノたちが段々とわかっていけるようになれればいいと思う。





書いている途中、SmileのPVはどんなものだったか思い返してみたらああ、花のキレイな映像だったなという感想が妙に心に残った。

記憶の中のおぼろげなその映像に興味を惹かれたので、数日のうちにそのPVをもう一度見返してみようと思う。

話が

新曲出てからツイートとかで色々言ってましたけどこういうまとまった形で書き留めておきたいなと思ったので少し書こうかなと思います。



フルバージョンが初めて公開された(というより発売前の試聴として)のはSCHOOL OF LOCK!の放送で、その時はPVもBUMP OF CHICKENのイメージ写真もなく曲だけをストレートに聴くことになったのですが、自分は聴いたあと少し落ち込んだというか何だか堪えたものがありました。



初聴きしてすぐは興奮してるので色んな人の感想が聞きたくなってインターネットでそういう感想見てたわけですけど、自分は初聴きしたときこの曲は確かに地を這いつくばっているような状況かもしれない、けど節々に希望を見いだせるじゃないかと何となく思ってたのが、結構これが違ってたというか。



「話がしたいよ」には最後まで「君」は出てこない。
「君がここにいたら話がしたいよ」と繰り返すけれど最後まで「君」が現れることはなくて、それでいて疲れきったような言葉の数々が作用しすぎてたのかわからないけれど聴いた後は前を向けるっていうより内向してた人が多かったような気がする。



その後何回もラジオ放送のアーカイブをリピートして何回も聴いた後しばらくして、同じように自分も何となく落ち込んだというかある種の寂しさを覚えました。

話がしたい君にはもう二度と会えなくて、疲れきった体を運ぶだけの心になった人間の歌にはどうしても思えなかったけれどやっぱりそういうことなのかなと何となく思っていたし、自分はBUMP OF CHICKENが20年以上の活動で潜り続けてきた深さをわかった気でいたことも感じて恥ずかしくなったような気持ちでした。



BUMP OF CHICKENの歌には「死」を歌っているものは沢山あった(それが人であったり思い出であったり記憶であったりは形が様々だと思う)しそうしたやるせなさも歌の中にあるけれど、その上で今生きてるだろっていうのが彼らの歌だと思っていたからこそやるせなさみたいなものを感じすぎてしまって、彼らはとうとうここまで深く深く潜って表現することを選んだのかと。

タブー視とまで言わないけれど目を背けていたようなどうしようもなさだけで終わってしまったのかと何となく落ち込みました。




そんな風になりつつも音源が販売されたら買うか…と思ってた矢先にPVが公開されました。



そのPVを観た時にようやく僕は彼らの歌った再起を見た、というよりちゃんと気づけたかもしれないと思いました。



PVの最後にはBUMP OF CHICKEN4人がバス停に集まって写真を撮るというただそれだけのシーンなのですが、ラジオから流れた音源だけに囚われていた僕はその少しのシーンだけで救われた気がしました。



話がしたい君に会えないこともあるかもしれないし会えない期間はもうひょっとしたら永遠なのかもしれないけれど、彼ら4人が集まってくれた、1人でいた誰かが1人のままで終わらないでいてくれたことがどれほど嬉しかったか。

PVでちゃんと会えたからハッピーエンドというわけでもないのはこの歌自体が証明しているけれど、多分そういうことではないと思う。
話がしたい君に会えないから救われない、ではなくてそういうやるせなさも確かにあるけれど最後にBUMPの4人が集まってくれたことでそういうものを払拭というか、希望をくれたんだと思う。



「話がしたいよ」のPVは映像があることに凄く意味があったと僕は強く思います。
単に映像のきらびやかさとか演出の豪華さだけでなく僕はどうしようもなくその5分ない映像にあたたかさを感じてしまったので。



この曲は映画「億男」の主題歌だったのでそっちも観に行ったのですが映画のエンドロールで聴くこの曲もめちゃくちゃ良かったです。というかこの曲がオチを担ってると言っても過言ではないんじゃないかなと。

映画見た人にはわかると思うんですけど、ようやく結論にたどり着けた和男はいったい誰にそれを話したいのか、彼が真に元通りになることは叶わなくて想いを伝えることもおそらく容易に出来ることではないけれどだからこそただ「話がしたいよ」なんだなあと。

億男めっちゃ良かったので気になったらいつか観てみてください。






長々と書いてしまってあまりまとまってないかもしれませんがここまで読んでいただいた方々に感謝を込めて、ありがとうございます。

やっぱり自分はどうしようもなくBUMP OF CHICKENが好きなので、頻度は落ちてるけど今後もこういうまとめみたいな形でいろいろ残していけたらいいのかなと思います。

また書くことが見つかったら何かしら残しておきます、では。

どうでもいいこと

ボーッとテレビを見ていたら映画のCMが流れてきた。



猫と飼い主のお話らしく、涙を誘うというような謳い文句と一緒に映画の映像を流していた。

その途中でどういったセリフだったか覚えていないけれど猫がご主人様がどうたらと喋るシーンがあった。



バラエティ番組でよく動物の映像が使われることがあるけれど、そこでもよく動物の心情を代弁したかのようなアフレコやナレーションをよく聞く。



あのCMもそういう類いのよくある1つだと思いつつも、何かふと違和感があった。



心とはいったい何なのか。

脳の電気信号。
精神。
心臓。
胸の真ん中あたりがジンジンするもの。
21グラム。
こころ、ココロ、心。


心の定義は多分この世に存在する人の数だけあって、曖昧なもの。

自分が「心」と呼んでいるものの定義すらわからないまま、動物の心をあたかも読み取ったような言葉というものは、いったいなんなのだろう。

動物だけじゃない、人は雪だるまみたいな自分が作ったものにすら話しかけたりする。



猫は言葉のやりとりが出来ない。
何を考えているのかわからない。

人が動物や物に感じる「心」という存在、時としてアニミズムとか呼ばれるものはただ人のエゴで作り出したものなのだと時々思う。



名前をつけたり、在るということにして安心を買っている。

この子はもし私が明日死んだら悲しむだろうとか、この子は私がいなければ生きていけないとか、そういうことを求めてしまうエゴがそうしたお喋りな動物を沢山生んでいる。



そうは言っても、そんな自分勝手な考えを別段否定しようとは思わない。

むしろ自分はそうした考えがあるから人はいちいち生きていけるのだと思う。



猫に自分との思い出があるかなんてわからない。
機械みたいに何かしらのプログラムで動いてるだけなのかもしれない。
そばにいる人がいなくなっても平然と生きていけるかもしれない。



それでも喋る猫が沢山いるのは、きっと自分が生きていることをこの上なく確かめるためなのかもしれない。

「我思う、故に我在り。」という言葉があるけれど、生きている感触、体温、記憶、そうしたもの全部を思い出しているうちは生きている実感がきっと無意識にしろあるのだと思う。



喋る猫というのは僕のエゴが作り出している虚像かも知れないけれど、僕はその虚像に何度も抱き締められているし、そうしたエゴを理解しながらも生きているカタチを抱き締めようとする人たちの姿はとても愛しいと思います。



そんなどうでもいいことをテレビを流し見していたらふと思いました。