ガラスの目をした猫とトコトコ

とりとめのない話をします



BUMP OF CHICKEN、ラブソングマジ!?

つって新曲発表朝から歓喜しました。



ロッテのCMタイアップって2006年に「涙のふるさと」でやってたこともあってそれを色々調べてたら、そのときも最初公開されてたCMは歌だけで 「これはBUMPの曲 (藤原基央の声) だ!」「いやBUMPが『会いにきたよ』なんて言うか?」 みたいな議論になってたらしいですけど、今回も30秒のムービーだけで似たようなこと起きてましたね。

というか僕が勝手になってました。





ラブソングですよってリリースしたものは2000年の「リリィ」が最後 (とは言ったものの当時「天体観測」とか「スノースマイル」とかがラブソングと言われるのが嫌で斜に構えて否定してたところはあるのかもしれないけれど) だったので18年も経ってど直球のラブソング出したことになるんですけど、そのタイトルが「新世界」なのがヤバすぎて一人でゴロゴロしてました。

だって「Merry Christmas」って直球な言葉のときも「ええっ!?」ってなったのに「ベイビーアイラブユーだぜ」と来たらもう驚くでしょう。

別に悪い意味でなくそういう言葉を使って歌うことはないのかなとは思っていたのでなおさら。



そうは言うけどBUMP OF CHICKENの楽曲ってどれもラブソングではあるのかなと。

恋愛の歌としてのラブソングではないけれど、親愛とか慈しみとか、もっと広い意味で触れようとか抱き締めようとか言ってきた人達だったから、今回の曲も恋愛の匂いを漂わせつつも根本にあるものは変わってないんだなって言葉が沢山あったように思います。



あと最近の曲は自分と自分が話すというよりも明確に他者と繋がることを歌ってるのが多くなってるのかなと。

目の前に今はいない誰かのことを歌った「話がしたいよ」だったり、手を繋いで世界の中心を作った「Spica」だったり、ライブツアー終えてBUMP OF CHICKENの4人が何を感じたのかはわからないけれど明確に他人のカタチが出てきてるなあと思います。



「新世界」っていう言葉通り、BUMP OF CHICKENはまた新しい領域開拓したんだなってただそれだけはハッキリと感じました。

チープな言葉ですけど確かに言えるのはそれですね。




もう書くことないので最後にこの曲の一番好きなところだけ言うと、



「君と会った時 僕の今日までが意味を貰ったよ」

「明日がまた訪れるのは 君と生きるためなんだよ」



っていうように、「君」から何かを貰うことから始まった「僕」が最後には自分の意思で意味を見つけてるところが今のところお気に入りです。



そうやって自分の意思で言い切れるところまで来た後にそれでも最後に伝えたいのは、

「僕の今日までが意味を貰ったよ」

なのが自分はめっちゃ好きです。






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ベイビーアイラブユーだぜ

X-Kid

いつもみたいに適当に音楽の動画漁ってたらGREEN DAYの「X-Kid」がめちゃくちゃ良いなって気がついたんですよ。
すごく有名なのに今まで全然気づかなくてそれ故に良さにビックリしました。

ぶっちゃけ言いたいことはそれだけなんで後はどうでもいいんですけど。



日本的な風景とは違う、アメリカの郊外というかだだっ広い家にデカイ庭にっていうアメリカっぽい風景を感じられるような (アメリカ行ったことないので適当に言ってます。) どこかノスタルジックさのあるギターリフが心地よくてそれが気に入っていたんですけど、後で調べてみたらギターヴォーカルのビリー・ジョー・アームストロングが自殺で亡くした友人のことを書いた歌だということで、この落ち着くような雰囲気も納得というかこれはある意味でレクイエムなのだなと気づきました。



勿論そういう意味もあるのですけど、曲自体はただの哀悼の意味で終わってないのかなと。

過ぎてしまった青春時代の全能感のあった全盛期の後とか終わってしまった旅の静けさみたいなものをずーっと感じながら、それでもその後も続いていく、続けなきゃいけない歩みをそういう「your own glory」に向けて「shouting is over」さよならをして進んでいくまでの気持ちをもういないX-Kidに向けて歌ってるのかなって思いました。



曲に関してはそんな感じです。
この曲ギターで演奏しても凄く楽しいので聴いたその日からやってみてもまたそんな気分に浸れるというか、とにかく過去の郷愁を刺激されていいなって思います。




ここから全然違う話します。


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そういうわけでX-Kidで色々調べてたらビリー・ジョー・アームストロングギブソンレスポールスペシャル持ってる写真とか何枚も見たんですよ。



ギブソンのギターなんてプロなら共通して持ってて当たり前なので共通点というのはまあ馬鹿げてるんですけど、レスポールスペシャル見てたらやっぱり藤原基央さんが浮かんできたんですよ。

彼もまた同じタイプのギターで演奏をしているので。



それで過去のインタビューでBUMP OF CHICKENが共通してGREEN DAYを聴いてコピーしていた時期があったと言っていたのを思い出して、若き藤原基央さんはビリー・ジョー・アームストロングが掲げるレスポールスペシャルを見て何を思ったのか。

当時MVビデオやライブ映像まで見てたのかはわからないですし今やってるBUMPの音楽がパンクに寄ってるわけでもないですけど、今の藤原さんが使うことが多いのはギブソンレスポールスペシャルでその姿を見て自分はギター始めようって思ったので、やっぱりどの時代も変わらなかったりするのかななんて勝手に思いました。



ルーツじゃないけど、なんというか似たような体験?してるかはわからないけど出来ていいなって思った日だったので何となく書きました。






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でも僕の持ってるギターはそんな高いお金出して買うギブソンの純正品などではなく、レスポール・タイプのコピー品なのでした。


MVコンテストの優勝作品の映像は凄く好きです。

特に最後ぐちゃぐちゃの部屋に戻ってくるところがいいなって思いました。

傲慢

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他人に対して思いやりをもつ能力がなければ、そんな知能など空しいものです。



ふと冷静になる瞬間がある。
自分は安全圏からモノを言っているなという自覚に突然気づくことがある。





自分は幸福であると思う。

朝起きて何か食べて外に出て帰って来てまた何か食べて夜に寝て。

家庭も別段悪いわけでもなく平凡ながら幸福に暮らしていると思う。





そして突然冷静になる。

自分が日頃から口にしている幸福論や日常観はどうしようもなくある矛盾を抱えていることに気づくことになる。





この世には明らかに自分の、もっと言えばもう誰の手にも負えないような問題がウジャウジャとそこかしこに存在している。

そういった問題は自発的にしろ受動的にしろ目にしない日はないと言っていいと思う。
どこにでも転がっていて、ある日自分の元に転がり込んでもおかしくないものもある。

そうした状況を見るたびに自分の唱える幸福論など風が吹けば飛ぶようなものだと思い知らされる。





生死がかかった状況の下にいる人間にとって安全圏からの幸福論は非常に甘ったれたものに思えるし、事実としてそうなのだろう。





しかしこの冷静さには意味がない。

そうした問題に対して目を向けているポーズを取っている傲慢さ、自らの哲学をどうにもならないからと諦める怠惰さなど挙げればキリはないが、少なくとも言えるのはこうした冷静さは意味がないということだ。





何故なら幸福であることに後ろめたさを感じること、それこそが傲慢だと思うからである。

無自覚的にしろ自覚的にしろ自分が積み上げた哲学、もっと言えば自分の論を持つに至るまで積み上げてきたものの数々に対する侮辱をしているのと同じだからだ。





もちろんそういったものの数々も風が吹けば飛ぶようなものかもしれない、それはわかっている。

それでもそうした冷静さというものは本当に意味がない、全く意味がない。

幸福論を捨てることで諸々の問題にあたかも手を差しのべるかのようにしているだけの行為に何の意味もないことはわかっている。





それでもやはり意味がないという言葉で片付けてしまいたくないと思ってしまう。

これまでの自分を通ってきたモノがそんな排他的な考えのもとに産み出されたりしているとはどうしても思いたくないからだ。





アルジャーノンに花束を」というダニエル・キイスの小説がある。

内容は6歳ほどの知能しかないチャーリィという男性が手術を受け徐々に知能を高めていくというそんな話だ。

急激に知能を高めた彼は以前から抱いていた情緒、言い換えれば「やさしさ」を失い孤立していく。

冒頭の文章は著者がこの小説を執筆するにあたって基盤となる考えを記したものだ。





3年前の当時これを読み終えた自分はチャーリィの身の上を考えるとやるせなくなり著者のこの言葉をすっと受け入れていた。





しかし今は思いやりとは何なのかよく分からない。

もしもチャーリィが情緒もそのままに知能を上げていたとしたらこんな傲慢さと向き合わなくてはいけなかったのではないか。

手術前のチャーリィは本当にやさしさを持った人間だと言われていたが、そうしたやさしさは一体どこから来ていたのか、単に無我であっただけなのか、知能の上がった今の自分ができるやさしさとは単なる施しなのか。

考えることは様々だろうし「アルジャーノンに花束を」で言いたいのはそういうことではない。

そういうことではないが、考えてしまう。





やさしさとは恐らく僕が他人に施そうとしているだけの単なるエゴなのかもしれない。

例えば余計な口を挟まないようにするのはただ問題解決に怠惰であるだけで、逆に憂いてふと気分を盛り下げるだけというのも単なる傲慢なだけなのだろうとも思う。





乱暴な言い方をすればこの世にあるモノで自分が感銘を受けたものというのは当たり前だがそもそもその対象が限定されていると思う。

「見て欲しい」「聴いて欲しい」
そういう言葉も全て万人に向けているようで本当は残酷な言葉なのかもしれない。





けれどそうして産み出されたモノの数々はきっとそうした「想定」などはしていない。
勘繰りや無意味な悲観をすることなく、それでいて「みんな」とかそういう包括的な言葉の残酷さに関しては苦しみの毎日というかそれに自覚的にならざるを得ないことに葛藤してるものがほとんどだと思う。

これは事実かどうかは全く分からないが僕は信じたい。

僕が信じていたものはそうした葛藤の奥から産まれてきたものだと信じることで僕もそれをきっと受け止められていると信じたいから、そういうものだと思いたい。





BUMP OF CHICKENの「Smile」は2011年の震災の際にリリースされたチャリティーソングだった。

BUMPもメンバーの方々がチャリティーということに対する葛藤が発生しなかったはずがない。
喪失を歌ってきた彼らだからこそそうした喪失に対する無力さを絶対にわかっていたと思う。

それでも彼らはSmileをリリースした。
傍観者である彼らはそんな葛藤を乗り越えて世にモノを送り出した。





僕はSmileをあまり聴くことがない。というか気軽に聴くことができない。

イヤホンから流れるアルバムでも次の曲にスキップしたり、この楽曲のPVを見たのも1回だけだ。確かキレイな花畑の中でBUMP OF CHICKENの4人が演奏している映像だったと思う。





Smileもまた自覚させられる。こちらが決定的に傍観者であるということや、今まで抱いてきた自分の論が揺らぐのを本当に感じる。

そしてそれは恐らく彼らが通ってきた道だ。





アルジャーノンに花束を」も僕は1度読んだきり読み返すことなく本棚にずっとしまったままだ。

チャーリィを何度も喪失に追い込むことに耐えられないからだ。
いや、もっと言えば自分自身がチャーリィと別れることに耐え難い痛みを感じる。

読み返したとて、彼に何度も残酷さを突きつけるだけであると本棚に放ったままだ。





それでもやはりそれらの言葉は特に突拍子もないときに思い出すこともある。

それは冒頭の文章のような言葉でもあれば、

大事な人が 大事だった事
言いたかった事 言えなかった事

あまり聴くことのない「Smile」の言葉だったりするのだ。






結局こうして色々書き連ねてみても全く状況は変わらない。
生きている限りこうした自覚には何度も見舞われることになる。





傍観者であることには変わらない、明らかな大きな隔たりというものは事実としてある。





それでも僕はその傍観者であるという事実から全てを投げ出してしまうということはしたくないというワガママでずっと自分の哲学を持とうとしなければならないのだと思う。





僕がこれまで通ってきたモノの数々が直面してきた葛藤は少しずつ僕のカラダに浸透していっているといいなと思う。





僕が通ってきたものは吹けば飛ぶようなものではないというエゴを抱いて、僕はずっといちいち悩むしかないのだろう。

僕は僕のカラダを経由してきたモノたちのことをわかっているようでまだまだ全然わかっていないし、これから先もそうしたモノたちが段々とわかっていけるようになれればいいと思う。





書いている途中、SmileのPVはどんなものだったか思い返してみたらああ、花のキレイな映像だったなという感想が妙に心に残った。

記憶の中のおぼろげなその映像に興味を惹かれたので、数日のうちにそのPVをもう一度見返してみようと思う。

話が

新曲出てからツイートとかで色々言ってましたけどこういうまとまった形で書き留めておきたいなと思ったので少し書こうかなと思います。



フルバージョンが初めて公開された(というより発売前の試聴として)のはSCHOOL OF LOCK!の放送で、その時はPVもBUMP OF CHICKENのイメージ写真もなく曲だけをストレートに聴くことになったのですが、自分は聴いたあと少し落ち込んだというか何だか堪えたものがありました。



初聴きしてすぐは興奮してるので色んな人の感想が聞きたくなってインターネットでそういう感想見てたわけですけど、自分は初聴きしたときこの曲は確かに地を這いつくばっているような状況かもしれない、けど節々に希望を見いだせるじゃないかと何となく思ってたのが、結構これが違ってたというか。



「話がしたいよ」には最後まで「君」は出てこない。
「君がここにいたら話がしたいよ」と繰り返すけれど最後まで「君」が現れることはなくて、それでいて疲れきったような言葉の数々が作用しすぎてたのかわからないけれど聴いた後は前を向けるっていうより内向してた人が多かったような気がする。



その後何回もラジオ放送のアーカイブをリピートして何回も聴いた後しばらくして、同じように自分も何となく落ち込んだというかある種の寂しさを覚えました。

話がしたい君にはもう二度と会えなくて、疲れきった体を運ぶだけの心になった人間の歌にはどうしても思えなかったけれどやっぱりそういうことなのかなと何となく思っていたし、自分はBUMP OF CHICKENが20年以上の活動で潜り続けてきた深さをわかった気でいたことも感じて恥ずかしくなったような気持ちでした。



BUMP OF CHICKENの歌には「死」を歌っているものは沢山あった(それが人であったり思い出であったり記憶であったりは形が様々だと思う)しそうしたやるせなさも歌の中にあるけれど、その上で今生きてるだろっていうのが彼らの歌だと思っていたからこそやるせなさみたいなものを感じすぎてしまって、彼らはとうとうここまで深く深く潜って表現することを選んだのかと。

タブー視とまで言わないけれど目を背けていたようなどうしようもなさだけで終わってしまったのかと何となく落ち込みました。




そんな風になりつつも音源が販売されたら買うか…と思ってた矢先にPVが公開されました。



そのPVを観た時にようやく僕は彼らの歌った再起を見た、というよりちゃんと気づけたかもしれないと思いました。



PVの最後にはBUMP OF CHICKEN4人がバス停に集まって写真を撮るというただそれだけのシーンなのですが、ラジオから流れた音源だけに囚われていた僕はその少しのシーンだけで救われた気がしました。



話がしたい君に会えないこともあるかもしれないし会えない期間はもうひょっとしたら永遠なのかもしれないけれど、彼ら4人が集まってくれた、1人でいた誰かが1人のままで終わらないでいてくれたことがどれほど嬉しかったか。

PVでちゃんと会えたからハッピーエンドというわけでもないのはこの歌自体が証明しているけれど、多分そういうことではないと思う。
話がしたい君に会えないから救われない、ではなくてそういうやるせなさも確かにあるけれど最後にBUMPの4人が集まってくれたことでそういうものを払拭というか、希望をくれたんだと思う。



「話がしたいよ」のPVは映像があることに凄く意味があったと僕は強く思います。
単に映像のきらびやかさとか演出の豪華さだけでなく僕はどうしようもなくその5分ない映像にあたたかさを感じてしまったので。



この曲は映画「億男」の主題歌だったのでそっちも観に行ったのですが映画のエンドロールで聴くこの曲もめちゃくちゃ良かったです。というかこの曲がオチを担ってると言っても過言ではないんじゃないかなと。

映画見た人にはわかると思うんですけど、ようやく結論にたどり着けた和男はいったい誰にそれを話したいのか、彼が真に元通りになることは叶わなくて想いを伝えることもおそらく容易に出来ることではないけれどだからこそただ「話がしたいよ」なんだなあと。

億男めっちゃ良かったので気になったらいつか観てみてください。






長々と書いてしまってあまりまとまってないかもしれませんがここまで読んでいただいた方々に感謝を込めて、ありがとうございます。

やっぱり自分はどうしようもなくBUMP OF CHICKENが好きなので、頻度は落ちてるけど今後もこういうまとめみたいな形でいろいろ残していけたらいいのかなと思います。

また書くことが見つかったら何かしら残しておきます、では。

どうでもいいこと

ボーッとテレビを見ていたら映画のCMが流れてきた。



猫と飼い主のお話らしく、涙を誘うというような謳い文句と一緒に映画の映像を流していた。

その途中でどういったセリフだったか覚えていないけれど猫がご主人様がどうたらと喋るシーンがあった。



バラエティ番組でよく動物の映像が使われることがあるけれど、そこでもよく動物の心情を代弁したかのようなアフレコやナレーションをよく聞く。



あのCMもそういう類いのよくある1つだと思いつつも、何かふと違和感があった。



心とはいったい何なのか。

脳の電気信号。
精神。
心臓。
胸の真ん中あたりがジンジンするもの。
21グラム。
こころ、ココロ、心。


心の定義は多分この世に存在する人の数だけあって、曖昧なもの。

自分が「心」と呼んでいるものの定義すらわからないまま、動物の心をあたかも読み取ったような言葉というものは、いったいなんなのだろう。

動物だけじゃない、人は雪だるまみたいな自分が作ったものにすら話しかけたりする。



猫は言葉のやりとりが出来ない。
何を考えているのかわからない。

人が動物や物に感じる「心」という存在、時としてアニミズムとか呼ばれるものはただ人のエゴで作り出したものなのだと時々思う。



名前をつけたり、在るということにして安心を買っている。

この子はもし私が明日死んだら悲しむだろうとか、この子は私がいなければ生きていけないとか、そういうことを求めてしまうエゴがそうしたお喋りな動物を沢山生んでいる。



そうは言っても、そんな自分勝手な考えを別段否定しようとは思わない。

むしろ自分はそうした考えがあるから人はいちいち生きていけるのだと思う。



猫に自分との思い出があるかなんてわからない。
機械みたいに何かしらのプログラムで動いてるだけなのかもしれない。
そばにいる人がいなくなっても平然と生きていけるかもしれない。



それでも喋る猫が沢山いるのは、きっと自分が生きていることをこの上なく確かめるためなのかもしれない。

「我思う、故に我在り。」という言葉があるけれど、生きている感触、体温、記憶、そうしたもの全部を思い出しているうちは生きている実感がきっと無意識にしろあるのだと思う。



喋る猫というのは僕のエゴが作り出している虚像かも知れないけれど、僕はその虚像に何度も抱き締められているし、そうしたエゴを理解しながらも生きているカタチを抱き締めようとする人たちの姿はとても愛しいと思います。



そんなどうでもいいことをテレビを流し見していたらふと思いました。

世界から猫が消えたなら

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世界から猫が消えたなら


ようやく読み終えたので少しだけそのことを書こうと思います。

ネタバレしながら書いていくのでこれから本読む方はお気をつけ下さい。












ひとまずあらすじだけ説明が面倒なのと本題はそこじゃないので引用します。

郵便配達員として働く三十歳の僕。ちょっと映画オタク。猫とふたりぐらし。そんな僕がある日突然、脳腫瘍で余命がわずかであることを宣告される。絶望的な気分で家に帰ってくると、自分とまったく同じ姿をした男が待っていた。
その男は自分が悪魔だといい、「この世界から何かを消す。その代わりにあなたは一日だけ命を得る。」という奇妙な取引を持ちかけてきた。僕は生きるために、消すことを決めた。
電話、映画、時計……僕の命と引き換えに、世界からモノが消えていく。僕と猫と陽気な悪魔の七日間が始まった。

いのちの話でした。


消していったものは確かに無くても生きていけるモノばかりだったかもしれないけれど、それでも僕という存在はそういったモノを通して希望や絶望、様々な物をもたらして僕としての形を作っていたんだと。


話が進むごとに僕という存在を作っているものはひとつずつ消えていきます。





そして世界から時計が消えました。

時計屋を営んでいる父さん。
母さんが死んでから一度たりとも会わなかった父さん。
母さんが死ぬ前だって家族を「する」ことが出来なかった父さん。

父さんはどうなったんだろう。



時計が消えたと同時に悪魔の計らいでもうひとつ世界に変化がありました。

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画像はごろごろにゃんすけの村里つむぎさんによるコラボイラスト



飼っていた猫のキャベツが喋り始めました。
母さんが死ぬ前に飼っていた猫のキャベツ。
僕は悪魔と出会ってからキャベツのフーカフーカという感触、温もりを確かめて、自分が生きていることを確かめていました。



人の言葉を喋るようになってからはお代官様(僕のこと)はいつも要求とずれたことをしてくるとか、猫まんまは人間の残飯だとか本当はキャベツのことをわかっているようでわかってなかったんだと。

それでも母さんが死ぬ前、母さんと時間を共にしてきた猫なのだ…と僕はキャベツに話をするのですが、キャベツは母のことを覚えていませんでした。



けれどある写真を見せるとキャベツの様子は変わりました。

母さんが死ぬ前の旅行の写真。
キャベツも一緒に連れて行った旅行の写真。

母さんのことは覚えていないけれど、写真を見たら幸せな気持ちだったことを思い出したと。



猫は太陽が昇ったとかお腹がすいたとかそういう自然現象があるだけで、時間というものは人間が決まりを作っているに過ぎない…と思うものの、その「時間」の感覚でしか母さんとのこの写真を説明出来なくなってしまう。

でももう世界に時計は無くて、そんなこともキャベツには伝えようがありませんでした。



母さんとの時間を知っているのはキャベツと僕と父さんだけになった世界で、悪魔が次に選択したのは



猫でした。





そしてこの後は表題通り、『世界から猫が消えたなら』を僕は考えることになります。



電話、映画、そして時計が消えるまでの話の中に自分の感想は勿論あるのですが、整理が出来ないので後半のエピソードのことだけに集中しようと思います。






悪魔が去って目を覚ますといなくなっていたキャベツ。

キャベツがいなくなったらを想像して必死に走り回る僕。




このあたりからずっと泣いてました。

フーカフーカという感覚を二度と確かめられないまま生きていく僕、僕とそして僕の中にあるもういない母さえ消えかけていた僕の姿から喪失はイヤでも伝わったからです。



自分はまだ「喪失」というものを恐らくまともに経験していません。

それでも僕が何かを感じたのは多分これから喪失するモノや人のことを思い浮かべてしまったからだと思います。

でも喪失とか死については、生まれ変わりなどないとか意識は有限でないとか目が覚めなくなるその瞬間どうなるんだとか考えるたびに、身体が冷えて呼吸が苦しくなって、心臓も荒ぶるような感覚になることはこれまでも度々ありましたが、涙が出るほどに胸の締め付けられる思いをしたことはほとんどなかったと思います。





僕は映画館だった建物の中で昔の恋人と共にいたキャベツを見つけました。

自分が生きていること、キャベツがまだいることを確かめるようにしてフーカフーカという感触に手で確かめる僕。



そしてキャベツと再開した僕に彼女は手紙を渡しました。
僕がほんとうに苦しんでいるときに渡して欲しいという言葉を受けての母さんからの手紙でした。



母さんからの手紙にあったのは死ぬまでにやりたい十のこと…ではなく、僕の良いところが十個書かれていました。

これだけ忘れずに生きて欲しいと。



母さんが言い出した旅行、あれは母さんが僕と父さんのために言い出してくれた旅行だったんだと気づいて僕は泣き出しました。

死ぬまでにまだやるべきことがあるのかもしれないと思ってモノを消していった僕。

けれど母さんは自分のためじゃなく僕と、そして父さんとのために時間を使うことを決めていた。






以前何かの文章を書いたときに自分はアルバムを見るのが苦手だと言いました。

そのときは「喪失」が想像できて泣いてしまうからと書いていましたが、それはきっとひとつの理由ではあるけれど、大きな理由ではないのだと思います。



昔のアルバムに写っているのは父と母と、そしてそこで楽しそうに笑っている自分の姿だったり、遊具で遊んでいる自分、公園で一緒に遊んでいる自分と母と、他にも弟といる姿だったり。



世界から猫が消えたなら』を読んで考えが変わったのは、そうした情景を写した写真は僕が母から受け取った手紙やキャベツと一緒なのだと思います。



僕が涙したように、母や父が、弟が僕のために使ってくれたたくさんの時間。
喪失がその先にあるとしても託してくれたたくさんの時間。
それらが作ってくれた自分の居場所がかけがえのないものだったりその途中でこぼれたものだったり、今もずっと持っているものだったり全部を実感していたからこそアルバムを見るのが苦手だったのだと思いました。



これを書いている途中にも涙が溢れて止まりませんでした。
もう自分の頭ではぼんやりとしているけれど、たしかに覚えている母の、父の、弟の、いろんな笑顔だったりどこか忘れてたものを思い出しては胸の締め付けられる思いがしてどうすることもできませんでした。

そして本の中の「僕」と同じで、くれた時間に何か返せたのか。
そんなことばかり考えてしまいました。





手紙を読み終えた僕にキャベツは猫を消すことで生きていて欲しいと言いました。

でも僕はもう決めました。

キャベツは消さない。

世の中に溢れているモノが存在している理由はわからなくとも失われる理由はきっとないと気づいたからです。



誰かにとっての何か。僕にとってのキャベツ。



猫を、キャベツを消さないことでようやく僕は言えました。



母さん、ありがとう。





自分は感謝している人に何度ありがとうと言えたのかわかりません。

僕のように、無くなって初めて気づいたり、少し止まって考えれば重要なことを目先のどうでもいいことで押し潰したりしている気持ちが痛いほど伝わりすぎて、その言葉に僕も後悔の念やかけがえの無さを感じて泣きじゃくるしかありませんでした。





自分の死を受け入れた僕は悪魔にサービスとして自分の身の回りを整理する時間を貰いました。

モノを捨てて、葬儀の予約をして。




そうして最後にキャベツをどうしようか。

思い浮かべたのは父さんの姿でした。



母さんが残りの時間を使ってまで望んでいたこと、父さんと僕がまた話が出来るように望んでいたことを思い出して僕は手紙を書きます。

書いて、思い出しました。



父さんが切手をいつも僕にくれたこと。

父さんのくれた切手が想像もできない遠い場所からやってきたこと。

郵便配達員になったきっかけが父さんのくれた切手だったこと。





寝ずに手紙を書き終え朝を迎えた僕はポストに手紙を投函…をしようとしたが急いで家に戻りました。

思い立ち郵便配達員の制服を着て、キャベツを自転車のカゴに乗せて、父さんのいる隣町へ近づいていく…



ここでこの本のお話は終わります。




僕は父さんの元にたどり着けたのか。

最期に会って何を話すのか。

僕は死に際に何を考えるのか。

僕がいなくなったらキャベツは何を思うのか。





僕がどんな選択をしたのか、どう生きたのか。想像するしかないけれど、自分は僕が父さんに会えたのだと、僕の生きた印であるキャベツと共に父さんはこれから生きていくのだと、そう思いたいです。

父さんの元へ向かうキャベツと涙で顔をぐちゃぐちゃにした僕の情景を想像しては胸に重たいものを感じるような気がしました。

それでも最後は体にまとわりついて気だるさが消えないような憑き物は落ちていったような気はしていて、それはきっとキャベツがいるからなんだと思います。






書いてるいま現在進行形で泣きすぎて頭が痛くなってきたので今回はまとめとか短く終わろうと思います。

短い話ながら自分が省略してるところもそこそこあるので、本を手に取って読んで欲しいなあとは思います。

自分も感想は気になるので。



自分がこれから生きていくうえでこの本を読んで感じたことはきっとそのうち忘れます。

忘れるけれど、ふとした拍子にこの本の存在を、僕の存在を、キャベツの存在を思い出せるように生きていきたい、アルバムに閉じ込めてあるかけがえのない時間を大事に出来る感性を失わないように過ごしていきたいと心から思いました。



「君がここにいたら 話がしたいよ」

そこにいない誰かを思っては胸が締め付けられても、そこにいた誰かのことを思い出している僕はまだ生きているのだから、と思っていたいです。




映画版もストーリー変えてきて配信もしてくれているらしいのでそのうち観てみようかなと思います。

多分また泣くから人前で観れんけど。




それではこんな駄文に最後まで付き合っていただきありがとうございました。

また何か書きたいことが出来たらちょっとずつ文章にしたいです。



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さようなら。

何か変わったのか

こんなこと書いてもう2年が経つのかとふと懐かしくなったので適当に書きます。



2年も前の自分は凄くかしこまってブログちまちま書いてたものの今はそんなこともなくなり、その日起きたどうでもいいことだったり観てきた映画の話だったりちょっとずつ在り方は変わってきてるのかもしれないです。




それでも昔の文読んで伝わるのはこの頃の自分が他に自分を表現をするものを知らないからこそ躍起になって書いてたのもあるんだろうなとあらためて気づきました。
悪く言えば心に余裕が全然ないからどうにかして爪痕を残そうとしてる様子がくっきりと残っているけど、それも自分の大事な一部なのかもしれないし。



じゃあ今表現できる手段が他にあるのかって言われたらそんなこともなくて、2年前に書いて「普通」についての自分への恨み言だったり考えはずっと残ったままで、2年経った今でも自分の成すべきことや楽しんでることに対してずっとマイナスの地続きのまま来てると言われたらそうとも言える。
基本物事に自信がないしね。



スタートラインに立とうとするのも精一杯で、そう思ってること自体も完全に不貞腐れてて、本当は何にも真剣じゃないのかもしれないと気づきそうになることがたまにありました。

最近はそういうのも無くなったけどそれは少し前向きになったとか自信がついたとかそういうことじゃなく本当はそう考えるとイヤだって諦念なのかということも勿論あるのです。



そんな中でも最近気づいたことといえば好きな人たちのやってることの輪に一緒に加わって自分もなんかしてみるとか、その人たちのことを知るためにやっていることを模倣するとかそういうことが今までずっとやってみたかったことなのかなっていうのがあります。



このブログもそうですけど思えばずっと高海千歌ちゃんという女の子の幻影を追いかけたり盾にしたり叱咤されたりしていろいろ考えたり動機にして何かやってたんだなあ…となんとなく最近感じています。
言うまでもなく他にそういう動機になってきたものは沢山あるけれど長くなるので今は千歌ちゃんの話だけします。



僕は千歌ちゃんと一緒に何かしたかったのかもしれません。
一緒にしたいというか、自分でなんかやってみてそれでもって千歌ちゃんに報告するっていう方が正しいのかな?


勝手に自分のことを重ねてしまったヒトだけれど、千歌ちゃんの歩みが僕にとってこうあれたらよかった、嬉しかったっていうものだったからこそ、ずっと対話をしようとしてたんだと思います。

そしてそれは多分昔の自分とお話するっていうことと一緒だったんじゃないかな、と。



まあ別に胸を張って生きていけてるとかそういうわけでもなくて、自分も偉そうなこと言ってけっこうここ2年の間に逃避に走ったことも多々あるのでたまに忘れてたまに思い出して、っていうのが千歌ちゃんと僕の関係だったと思います。



それでもずっと忘れてることが無くて良かった、きっと忘れることはなかったんだなと思うことが単純に2つあって、1つはまあ日常生活の中で今のところどうにか生きていけてるし間違いなくその活力のひとつを担ってくれてたっていうことと、もう1つは単純に趣味とか思考が充実したっていうことです。



前者は言うまでもないけど単純にアニメの何話が何日後とかあと数週間でライブだとか、そういうのを動機にして過ごせてた部分もあれば、ここでは彼女たちの言葉でちょっぴりにしろめちゃくちゃにしろ歩いてきたっていうところは事実としてあるので本当に感謝しかないです。



後者はまあ後者って言ったのに2つくらいになりそうだけど、単純にコレやってみようって事に最近手を出せたのが凄くデカいというかこの作品観てなかったら間違いなくやってなかったものに出会えたことが一番自分のなかで分かりやすいです。
まあ、言うまでもなくギター買ったことなんですけど。

ヘタクソなギター引っ提げて家に帰って夜だったり休みの昼間だったり自分の好きな人たちの音と一緒に自分のたどたどしい音に包まれる感覚が半年くらい心地よくてまだ続けられてます。

ひょっとしたら千歌ちゃんがスクールアイドル始めたとしたらこんな気持ちだったのかもしれないし、好きな人たちに何か伝えたい返したいっていうのも今では凄く分かるから、そういう意味でもなんかアウトプットするっていうのはどんな形であれ千歌ちゃんと一緒のことができて良かったんじゃないかな?と勝手に思ってます。

とにかくこれ買ったことで彼女とちょっと並んだかな?って感じることは少なからずありますね。
出来に関わらず、何かやる原動力あったんだ!みたいな感じで。
まあそのやる気を本業というか本筋に活かさないとな…っていうのもありますが。



あと思考するというかモノの見方はいい意味でちょっと変わったのかなとは思います。名前出したがりなのでまあ出しちゃうんですけど、僕の敬愛するBUMP OF CHICKENの音楽をもう一度聴き始めたのは間違いなくこの作品があったからって言えるので。

刺さるというかピンポイントで何か感じ取った部分が多く感じ始めたのは自分の境遇のせいもあったかもしれないけれどそれでも何か感じるアンテナは2年前書いてたときよりも少し広くなったと思います。

感じるアンテナが広くなったっていうことはそれだけ自分が何か感じてることに自覚してるってことで、自分のことを少しはちゃんと考え出したってことだと思うので。
それがすべて行動に伴ってるかは置いといて浅いものだとしても自分の中の哲学というか原理みたいなものを少しだけ自覚できるようになれたんじゃないかなと。



千歌ちゃん(だけじゃないけど、)がくれたものはこの2年沢山あって、それを全て受け止めて何か出来たわけじゃないので悔いたり恥じたりする部分も沢山あるけど、いくつかは何か出来たから良かったんじゃないかなとちょっとだけ思えるようになったのは彼女と出会ってからの少しの変化かもしれないです。



千歌ちゃんと一緒に歩めたのは彼女が求めてたのが大層華やかな結果だけじゃなく、もっと手元にある日常の中の幸せのような何かだったから僕とずっと離れないでいてくれたかのように今日まで来たのかもしれないです。

たまに彼女の形を忘れてしまうけど、その度に思い出せるほどに彼女の姿に何回も何か貰ってたのはやっぱり事実だから、最近そういう風に感じなくなってきて何か麻痺しているようだったけれどやっぱり思い返してみて彼女の存在が所々にいたことを思い出したのでこういう場所のこういう形で少しだけ残そうと思いました。
また不貞腐れたようにあまり話してなかったけれど、こうして何かに書き起こしてみると思い出せたことも、その度に感じるほんのりとしたあたたかさもまた戻ってくるので自分にとってはいい機会になりました。



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これからも節目節目でちょっと会っては少し話してはまた進んで、そういう風にやっていけるのが僕にはずっといいのかもしれません。

凄まじい光を放つ輝きを受けてもこうやってゆるやかに進んでいったっていいじゃないか、なんて笑いながら話せたらそれが一番いいなっていうのが今の自分の気持ちです。